伊藤博文
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他、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監元老などを歴任した[1][2]。百姓の身分から初代内閣総理大臣に上り詰め、その後も元老として明治日本を牽引したので今太閤の代名詞も持つ日本、またアジアの近代史を代表する人物の一人である。

は、博文(ひろぶみ、「ハクブン」と読むこともある)。幼名は利助(りすけ)、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔(しゅんすけ)とし、さらに春輔(しゅんすけ)と改名した。明治初期に政府公文書で本姓カバネを使うことが義務づけられていた時期には越智宿禰(おちのすくね)博文と署名した[3][4]
概説

周防国百姓の子として生まれる。父が長州藩足軽伊藤家に入ったため、父とともに下級武士の身分を得る。

吉田松陰私塾である松下村塾に学んだ。尊王攘夷運動に参加したが、1863年には藩命により井上馨らとともにイギリスに密航して留学して開国論者となる[5][2]1864年ロンドンで四国連合艦隊の長州藩攻撃の計画を知り、急遽帰国し、藩主毛利敬親に開国への転換の必要を説いたが、受け容れられなかった。同年幕府による第一次長州征伐に対する藩首脳の対応に憤慨した高杉晋作が起こした功山寺挙兵に参加。この藩内戦の勝利により藩主流派となり、藩政改革に参画するようになり、主に藩の対外交渉の任にあたった[2]

明治維新後の1868年から政府に出仕し、外国事務掛、参与、外国事務局判事、初代兵庫県知事などを歴任。1869年(明治2年)には陸奥宗光らとともに当面の政治改革の建白書を提出して開明派官僚として頭角を現した。また大蔵少輔民部少輔として貨幣制度の改革を担当し、1870年(明治3年)には財政幣制調査のために渡米し、翌年の金本位制の採用と新貨条例の公布を主導した。1871年(明治4年)岩倉使節団の副使として外遊する。この間に大久保利通の信任を得た[2]

1873年(明治6年)の帰国後には大久保らとともに内政優先の立場から西郷隆盛征韓論に反対し、同年10月に西郷らが下野すると大久保の片腕として参議工部卿に就任した[1]1878年(明治11年)に大久保が不平士族に暗殺された後、その後を継いで内務卿に就任し、政府の中心人物となった。琉球処分、侍補制度の廃止、教育令の制定などを推進した。1881年(明治14年)に大隈重信からイギリス型議会政治を目指す急進的憲法意見が出されると伊藤が反対し、大隈ら開明派官僚が下野するという明治十四年の政変が発生した[2][1]1882年(明治15年)にドイツオーストリアの憲法調査を行い、1884年に宮中に制度取調局を創設してその長官に就任し、立憲体制への移行に伴う諸制度の改革に着手した[2]

1885年太政官にかえて内閣制度を創設し、初代内閣総理大臣に就任した(第1次伊藤内閣)。井上毅伊東巳代治金子堅太郎らとともに憲法や皇室典範貴族院令、衆議院議員選挙法の草案の起草にあたり、1888年枢密院が創設されるとその議長に就任し、憲法草案の審議にあたった。1889年に日本最初の近代憲法明治憲法を制定。君主大権の強いドイツ型の憲法だったが、伊藤は立憲政治の意義が君権制限と民権保護にあることを強調し、立憲主義的憲法理解を示した[2][1]

1890年(明治24年)に帝国議会が創設されると初代貴族院議長に就任(最初の議会のみ)。1892年(明治25年)に第2次伊藤内閣を組閣し、衆議院の第一党だった自由党に接近。日清戦争では首相として大本営に列席するとともに日清講和条約に調印した。戦後は自由党と連携して連立政権を組織[1]1898年(明治31年)に第3次伊藤内閣を組閣したが、自由党や進歩党との連携に失敗し、地租増徴が議会の反発で挫折したことで総辞職。


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