伊能忠敬
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伊能 忠敬
『伊能忠敬像』
(伝青木勝次郎画 伊能忠敬記念館蔵)
生誕神保三治郎
延享2年1月11日
〈 (1745-02-11) 1745年2月11日
上総国山辺郡小関村
死没文化15年4月13日
1818年5月17日
(73歳没)
別名三郎右衛門、勘解由
研究分野天文学
研究機関天文方
影響を
受けた人物高橋至時
影響を
与えた人物高橋景保間宮林蔵
子供イネ、伊能景敬神保玄二郎、伊能順次、シノ、コト
署名
プロジェクト:人物伝
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伊能 忠敬(いのう ただたか[注釈 1]延享2年1月11日1745年2月11日〉- 文化15年4月13日1818年5月17日〉)は、江戸時代商人天文学者地理学者測量家通称は三郎右衛門(さぶろえもん)、勘解由(かげゆ)。は子斉、は東河。

寛政12年(1800年)、56歳から、文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国を測量、73歳で死去[2][3]。その後は弟子たちが遺志を受け継いで『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。

1883年明治16年)、贈正四位
前半生伊能忠敬出生の地(千葉県九十九里町)
幼少期(九十九里町生活期)

延享2年(1745年)1月11日、上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家で生まれた。幼名は三治郎。父親の神保貞恒は武射郡小堤(おんづみ)村(現・千葉県山武郡横芝光町小堤)にあった酒造家の次男で、小関家には婿入りした。三治郎のほかに男1人女1人の子がおり、三治郎は末子だった[4]

6歳のとき母が亡くなり、家は叔父が継ぐことになった。そのため、婿養子だった父・貞恒は兄と姉を連れて実家の小堤村の神保家に戻るが、三治郎は祖父母の下に残った。

小関家での三治郎の生活状況について、詳しくは分かっていない。当時の小関村は漁が盛んで、三治郎は漁具が収納されてある納屋の番人をしていたと伝えられている[5]。一方で、名主の家に残されていたということもあって、読み書きそろばんや、将来必要となるであろう教養も教え込まれていたのではないかとも考えられている[6]
少年?青年期(横芝光町生活期)

10歳のとき、三治郎は小堤(おんづみ)村(現・山武郡横芝光町小堤)の父神保家の下に引き取られた。神保家は父の兄である.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}宗載(むねのり)が継いでいたため、父は当初そこで居候のような生活をしていたが、やがて分家として独立した[7]

神保家での三治郎の様子についても文献が少なく、詳細はあまり知られていない[8]。一説には、三治郎の神保家での暮らしは落ち着いたものではなく、親戚や知り合いのもとを転々とした時期があったと言われているが詳細は不明である。さらに一説には、これらは勉学のための来訪であったとも推測されている[9]

三治郎の小堤村(現・山武郡横芝光町小堤)時代の逸話として、小堤村より中台村の伊藤家を訪れ、女婿の清三郎に青春の悩みを訴えたことがあった。清三郎は、悩める三治郎を親身になって励ましたという[10]。この中台村の伊藤清三郎は、後に三治郎こと伊能忠敬の生涯を通した理解者となり、三治郎を弟のように慈しみ、その友情や理解、支援は後年まで続くこととなる[11][12]常陸(現在の茨城県)の寺では半年間そろばんを習い、優れた才能を見せた[13]。また17歳くらいのとき、「佐忠太」と名乗り、南中村(現香取郡多古町南中)の名主、平山季忠の紹介[14]により、土浦の医者に医学を教わった記録がある[15]。ただしここで習った医学の内容はあまり専門的なものではなく、余興の類だったといわれている[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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