忠敬が伊能家に来た翌年の1763年、長女のイネ(稲)が生まれた。同じ年、妻・ミチと前の夫との間に生まれた男子は亡くなった。3年後の明和3年(1766年)には長男の景敬が生まれた[25]。
忠敬は伊能家の当主という立場から、村民からの推薦で名主後見に就いた。とはいえ忠敬はまだ年も若かったため、初めのうちは親戚である伊能豊明の力を借りることが多かった[26]。この時期の忠敬は病気で長い間寝込んでいたこともあった。新当主として親戚づきあいなどの気苦労も絶えなかったからではと推測されている[27]。
明和6年(1769年)、佐原の村で祭りにかかわる騒動が起き、これは当時24歳の忠敬にとって力量が試される事件となった[27]。
佐原の中心部は小野川を境に大きく本宿と新宿に分かれ、祭りはそれぞれ年に1回ずつ開かれる。伊能家と永沢家は本宿にあり、そこでの祭礼は牛頭天王(ごずてんのう)の祭礼(祇園祭)であった。当時は毎年6月に開催されており、祭りの際は各町が所有する、趣向を凝らした山車が引き回されていた[28][29]。ところが明和3年(1766年)以来、佐原村は不作続きで、農民も商人も困窮していた。そこで佐原村本宿の村役人3人が話し合い、今年は倹約を心がけ、豪華な山車の飾りものは慎むことに決め、町内にもそのように通達した。しかしそれにもかかわらず、各町内は例年のように豪華な飾りものの準備を始めた。そのうえ、山車を引き回す順番についても、双方の町が自分たちが一番先に出すと主張し、収拾のつかないまま当日を迎えることになった。このまま祭りが始まると大騒動に発展すると判断した村役人たちは、この年は山車を出さないことを決定した。このときに各町を説得しに回ったのが、名主後見の立場にあった永沢家の永沢治郎右衛門と、伊能家の忠敬であった[30]。
佐原村本宿は大きく、本宿組と浜宿組に分かれていた。忠敬と永沢は分担して、忠敬は本宿組の各町を、永沢は浜宿組の各町を説得し、ようやく各町の同意を取りつけた。ところが祭礼2日目、永沢家が説得したはずの浜宿組において禁が破られ、山車が引き回されるという事態が発生した。本宿組の町民はさっそく忠敬を問い詰め、忠敬も永沢家に赴き責任を追及した。しかし本宿組の担当者はそれだけでは納得がいかず、浜宿組が山車を出したのだからこちらも出すと強硬に主張した。忠敬は、このままでは大きな争いになるのは必至で、町内に申し訳が立たないと感じたため、伊能家は永沢家と「義絶」すると宣言した[30][31]。このときの義絶とはどのような状態なのか詳しく分かっていないが、伊能家は永沢家と今後一切の付き合いをやめるという意味であると推測される[32]。これにより、各町は山車を出すことをようやく取り止めた。さらに、佐原で「両家」と呼ばれ、富と地位のある2つの家の義絶は村にとっても良くないと考えられたため、仲介によって、同年に両家は和解することとなった[30]。 祭礼騒動が起こった年の7月、忠敬とミチとの間に次女・シノ(篠)が生まれた。さらに同じ年、忠敬は江戸に薪問屋を出したが、翌年に火事に遭い、薪7万駄を焼くという損害を出してしまった[31]。 この頃、幕府では田沼意次が強い力を持つようになっていった。田沼は幕府の収入を増やすため、利根川流域などに公認の河岸問屋を設けそこから運上金を徴収する政策を実行した。そして明和8年(1771年)11月、佐原村も、河岸運上を吟味するため、名主・組頭・百姓代は出頭するよう通告された[33][34]。 河岸問屋が公認されると運上金を支払わなければならなくなる。そのため佐原の商人や船主は公認に乗り気でなかった。そこで名主4人が江戸の勘定奉公所へ行き「佐原は利根川から十四、五町も離れていて河岸問屋もないから運上は免除願いたい」と申し出た[34][35]。しかしこの願いは奉公所に全く聞き入れられずそれならば佐原には河岸運送をすることは認めないと言われることとなった[34][35]。 これを受けて佐原村では再び話し合いその結果それまで河岸運送に大きく関わってきた永沢治郎右衛門、伊能茂左衛門、伊能権之丞、忠敬の4人が河岸問屋を引き受けることになった。ところがその数日後永沢治郎右衛門と伊能権之丞は突然辞退したため結局引き受けるのは伊能茂左衛門と忠敬の2人だけになった[36]。 翌年、2人は願書を作って勘定奉公所に提出した。そしてこの願書は奉公所の怒りを買った。というのも去年の願書では、「佐原は利根川から十四、五町離れている」としていたが今年の願書では「利根川から二、三町」だとしていたうえ、以前は「河岸問屋がない」としていたところ、今度は「2人は前から問屋を営んでいた」などと書かれていたためである。矛盾を追及された佐原側は、昨年申し上げたことは間違いであったなどと言い訳をしたが、最終的に奉公所から「以前から問屋を営んでいたというのであれば、その証拠を出すように」と命じられた[34][37]。 これを聞いた忠敬は数日の猶予を願い出ていったん佐原へ帰り、先祖が書き残した古い記録をかき集めて奉公所に提出した。この記録によって、佐原は昔から河岸運送をしていたことが証明され、忠敬と茂左衛門は公認を受けることができた。運上金の額は話し合いのうえ、2人で一貫五百文と決まった[37]。 ところが同年5月、佐原村内の権三郎という者が「自分も問屋を始めたい」と奉公所へ願い出たため、その関係で忠敬は再び江戸へ出向くことになった。忠敬は「権三郎も問屋を始めたのでは自分たちの商いの領分も減ってしまうし、村方も了承していない」と反対意見を述べた。それに対して奉公所の役人は「権三郎は、自分ひとりに問屋を任せれば、忠敬・茂左衛門の運上金に加えてさらに毎年十貫文上納すると言っているので、2人も問屋を続けたいなら、運上金を増額せよ」と迫った。忠敬は返答の先送りを願い出て、佐原に帰った[38]。 そして同年7月、忠敬は村役人惣代、舟持惣代らとともに出頭し、同じく出頭していた権三郎と対決した。忠敬は、自分たちは村役・村方の推薦のもと問屋を引き受けたと主張し、さらに権三郎については、多額の運上金を払えるだけの財産もなく、過去にも問屋のことで問題を起こしていると批判した。村役人惣代や舟持惣代も忠敬を支持した。そのため忠敬の主張が認められ、公認の問屋は元のように2人に決まり、この問題はようやく解決をみた。運上金の金額も、一時は二貫文に上がったが、2年後には一貫五百文に戻った[39]。 この事件で重要な役割を果たすことになった伊能家の古い記録の多くは、忠敬の三代前の主人である伊能景利 河岸の一件が片づくと、忠敬は比較的安定した生活を送った。安永3年(1774年)、忠敬29歳のときの伊能家の収益は以下のようになっている[44]。 安永7年(1778年)には、妻・ミチと奥州旅行へ出かけた。これは忠敬にとって、妻と一緒に行った唯一の旅行となった[45]。 同じ年、これまで天領だった佐原村は、旗本の津田氏の知行地となった。忠敬は名主や村の有力者と、江戸にある津田氏の屋敷に挨拶に出向いた。そのとき、名主5人と永沢治郎右衛門は麻の裃を着用していたのに対し、忠敬は裃の着用を許されず、屋敷内で座る場所も差をつけられた[46]。これは永沢が名字帯刀を許された身分だったためであるが、商いが順調なのに相変わらず永沢家と身分に差をつけられていることに悔しさを感じた忠敬は、永沢に対抗心を燃やすようになった[47]。しかし、そのうちに忠敬の待遇も上がり、天明元年(1781年)、名主の藤左衛門が死去すると、代わりに忠敬が36歳で名主となった[48]。 天明3年(1783年)、浅間山の噴火などに伴って天明の大飢饉が発生し、佐原村もこの年、米が不作となった。
河岸一件
佐原村名主へ
酒造 163両3分
田徳 95両
倉敷・店賃 30両
舟利 23両2分
薪木 37両3分
炭 1両1分
合計 351両1分
名主としての忠敬