伊能忠敬
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このような佐原の土壌はのちの忠敬の活躍にも影響を与えたと考えられている[21]

当時の佐原村は天領で、武士は1人も住んでおらず、村政は村民の自治に負うところが多かった[22]。その村民の中でも特に経済力があり村全体に大きな発言権を持っていたのが、永沢家と伊能家であった[23]。伊能家は醤油醸造貸金業を営んでいたほか、利根川水運などにも関わっていたが、当主不在の時代が長く続いたために事業規模を縮小していた。一方、永沢家は事業を広げて名字帯刀を許される身分となり、伊能家と差をつけていた。そのため伊能家としては、家の再興のため、新当主の忠敬に期待するところが多かった[24]
祭礼騒動

忠敬が伊能家に来た翌年の1763年、長女のイネ(稲)が生まれた。同じ年、妻・ミチと前の夫との間に生まれた男子は亡くなった。3年後の明和3年(1766年)には長男の景敬が生まれた[25]

忠敬は伊能家の当主という立場から、村民からの推薦で名主後見に就いた。とはいえ忠敬はまだ年も若かったため、初めのうちは親戚である伊能豊明の力を借りることが多かった[26]。この時期の忠敬は病気で長い間寝込んでいたこともあった。新当主として親戚づきあいなどの気苦労も絶えなかったからではと推測されている[27]

明和6年(1769年)、佐原の村で祭りにかかわる騒動が起き、これは当時24歳の忠敬にとって力量が試される事件となった[27]

佐原の中心部は小野川を境に大きく本宿と新宿に分かれ、祭りはそれぞれ年に1回ずつ開かれる。伊能家と永沢家は本宿にあり、そこでの祭礼は牛頭天王(ごずてんのう)の祭礼(祇園祭)であった。当時は毎年6月に開催されており、祭りの際は各町が所有する、趣向を凝らした山車が引き回されていた[28][29]。ところが明和3年(1766年)以来、佐原村は不作続きで、農民も商人も困窮していた。そこで佐原村本宿の村役人3人が話し合い、今年は倹約を心がけ、豪華な山車の飾りものは慎むことに決め、町内にもそのように通達した。しかしそれにもかかわらず、各町内は例年のように豪華な飾りものの準備を始めた。そのうえ、山車を引き回す順番についても、双方の町が自分たちが一番先に出すと主張し、収拾のつかないまま当日を迎えることになった。このまま祭りが始まると大騒動に発展すると判断した村役人たちは、この年は山車を出さないことを決定した。このときに各町を説得しに回ったのが、名主後見の立場にあった永沢家の永沢治郎右衛門と、伊能家の忠敬であった[30]

佐原村本宿は大きく、本宿組と浜宿組に分かれていた。忠敬と永沢は分担して、忠敬は本宿組の各町を、永沢は浜宿組の各町を説得し、ようやく各町の同意を取りつけた。ところが祭礼2日目、永沢家が説得したはずの浜宿組において禁が破られ、山車が引き回されるという事態が発生した。本宿組の町民はさっそく忠敬を問い詰め、忠敬も永沢家に赴き責任を追及した。しかし本宿組の担当者はそれだけでは納得がいかず、浜宿組が山車を出したのだからこちらも出すと強硬に主張した。忠敬は、このままでは大きな争いになるのは必至で、町内に申し訳が立たないと感じたため、伊能家は永沢家と「義絶」すると宣言した[30][31]。このときの義絶とはどのような状態なのか詳しく分かっていないが、伊能家は永沢家と今後一切の付き合いをやめるという意味であると推測される[32]。これにより、各町は山車を出すことをようやく取り止めた。さらに、佐原で「両家」と呼ばれ、富と地位のある2つの家の義絶は村にとっても良くないと考えられたため、仲介によって、同年に両家は和解することとなった[30]
河岸一件

祭礼騒動が起こった年の7月、忠敬とミチとの間に次女・シノ(篠)が生まれた。さらに同じ年、忠敬は江戸に問屋を出したが、翌年に火事に遭い、薪7万駄を焼くという損害を出してしまった[31]

この頃、幕府では田沼意次が強い力を持つようになっていった。田沼は幕府の収入を増やすため、利根川流域などに公認の河岸問屋を設けそこから運上金を徴収する政策を実行した。そして明和8年(1771年)11月、佐原村も、河岸運上を吟味するため、名主・組頭・百姓代は出頭するよう通告された[33][34]

河岸問屋が公認されると運上金を支払わなければならなくなる。そのため佐原の商人や船主は公認に乗り気でなかった。そこで名主4人が江戸の勘定奉公所へ行き「佐原は利根川から十四、五も離れていて河岸問屋もないから運上は免除願いたい」と申し出た[34][35]。しかしこの願いは奉公所に全く聞き入れられずそれならば佐原には河岸運送をすることは認めないと言われることとなった[34][35]

これを受けて佐原村では再び話し合いその結果それまで河岸運送に大きく関わってきた永沢治郎右衛門、伊能茂左衛門、伊能権之丞、忠敬の4人が河岸問屋を引き受けることになった。ところがその数日後永沢治郎右衛門と伊能権之丞は突然辞退したため結局引き受けるのは伊能茂左衛門と忠敬の2人だけになった[36]

翌年、2人は願書を作って勘定奉公所に提出した。そしてこの願書は奉公所の怒りを買った。というのも去年の願書では、「佐原は利根川から十四、五町離れている」としていたが今年の願書では「利根川から二、三町」だとしていたうえ、以前は「河岸問屋がない」としていたところ、今度は「2人は前から問屋を営んでいた」などと書かれていたためである。矛盾を追及された佐原側は、昨年申し上げたことは間違いであったなどと言い訳をしたが、最終的に奉公所から「以前から問屋を営んでいたというのであれば、その証拠を出すように」と命じられた[34][37]

これを聞いた忠敬は数日の猶予を願い出ていったん佐原へ帰り、先祖が書き残した古い記録をかき集めて奉公所に提出した。この記録によって、佐原は昔から河岸運送をしていたことが証明され、忠敬と茂左衛門は公認を受けることができた。運上金の額は話し合いのうえ、2人で一貫五百文と決まった[37]

ところが同年5月、佐原村内の権三郎という者が「自分も問屋を始めたい」と奉公所へ願い出たため、その関係で忠敬は再び江戸へ出向くことになった。忠敬は「権三郎も問屋を始めたのでは自分たちの商いの領分も減ってしまうし、村方も了承していない」と反対意見を述べた。


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