伊武雅刀
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私立東邦高等学校に進む[8]。映画スターに憧れ、新聞で目にしたNHK名古屋放送局制作のテレビドラマ『高校生時代』(後の『中学生日記』)オーディションを受け[8]、同ドラマの1967年度放送分に森本レオと共に出演した(森本もこのドラマで俳優デビューしており親交が深い)[9]。これが転機となり、本格的に俳優を志すため同校を中退して東京へ戻り、現代演劇協会付属現代演劇研究所「劇団雲」に入団[8]

しかし1年で同劇団を“ドロップアウト”し、今度は俳優小劇場の養成所に入るもこちらも半年で辞めてしまう[10]。この当時、「君は声はいいけれど、声だけだな」と評価されるなど、声の魅力は弱冠20歳にして認められるものがあった[11]

その後、仲間と新たに旗揚げした劇団に移る[8]。この頃はトイレ風呂共同の3畳一間に住んだり、痔を患いながら日雇いの工事現場で廃材を運ぶ肉体労働で生計を立てるなど苦しい生活を経験した[8]。そんな折、渡辺貞夫のラジオ番組のパーソナリティのオーディションを受けたところ、本人はジャズなどの見識はなかったが声の良さを買われて合格、ラジオ出演とともにCMのナレーションの仕事なども入るようになった[8]。以前は黒沢事務所、プロダクション・エムスリーにも所属していた[2][12][13]

プロダクションエム・スリーでの先輩にあたる堀勝之祐から勧められたことをきっかけに、1970年代は意欲的に声優の仕事にも取り組む[12]。『宇宙戦艦ヤマト』シリーズのデスラー総統役[9]が当たり役かつ出世作となったほか、多数の外画吹き替えにも出演したが、あくまでも声優業を行う理由は「稼ぐため」で俳優への志は強く、当時の伊武にとって声優活動は本意ではなかったという。

1976年末頃、ラジオで知り合った小林克也からラジオ番組への出演を持ちかけられる。これがラジオ大阪桑原茂一プロデュースの番組「スネークマンショー」で、この中での小林との掛け合いによる過激で当時のタブーギリギリの内容のコントがリスナーや放送業界内でも評判となった。この番組は後にTBSラジオほかJRN系列で全国ネットとなり、さらにYMOによってコントがレコードに収録されるに及んで音楽業界にまで一気に知名度が上がった。

1982年『ウィークエンド・シャッフル』で映画デビューを果たす[9]

2002年10月?2009年3月にはラジオ番組『JET STREAM』の機長(パーソナリティ)を務め、初代パーソナリティ城達也のスタイルを踏襲した語り口で好評を博した。なお伊武は当番組担当前に「スネークマンショー」において、本番組のパロディとして、「JET STRIP」のパーソナリティ“欲情達也”を演じた経験がある。
人物

俳優としては悪役や腹黒い役で名を馳せたが、コミカルな役柄もこなしている。

趣味・特技は一人でフラッと旅をすること、レコード鑑賞、酒[4][13]

現在の「雅刀」という芸名の由来は、声優の井上瑤から伊武雅之時代に「名前の最後の字を2画の字にするといい」とアドバイスを受けたことによる[14]。「刀」は時代劇にも将来出演したいことからちょうどいいと選んだという[3]

3人兄弟の長男で妹が2人いる[6]。既婚者で娘がいる[13]
代役・後任(声優)

俳優業が活動の主体になってからは、声の仕事(持ち役の再演など)で代役が立てられることがある。ただし、2009年のインタビューにおいて「(オファーが)来たらやりますよ。でもギャラが高いと思われているから(笑)。こないんじゃない?」と語るなど、依頼があれば引き受ける姿勢であることを明かしている[15]。そのほか、『宇宙戦艦ヤマトシリーズ』のデスラーは自身の原点であるという理由もあり基本的には続投している[16]

リメイク等で他の声優陣も総入れ替えされた作品はこの趣旨から外れるため、この表には記載しない。

後任・代役キャラクター名概要作品代役の初担当作品
菅生隆之サム・グルーム『警察医サイモン・ロック』TBA
大木民夫藤堂平九郎『宇宙戦艦ヤマトシリーズ』PS版『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち
若本規夫デスラー『特打ヒーローズ 宇宙戦艦ヤマト タイピング波動砲』
石塚運昇ANA「旅割」CM
高瀬右光ルーク・バスケット『刑事コロンボ 白鳥の歌』VHS追加収録部分


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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