伊東四朗
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引き継いだ三波はフランス劇場の座付で残り、石井の劇団に移った戸塚とはこの夜スケジュールに間に合わない事態が発生すると、戸塚はその都度に同じ座員だった伊東に声を掛けてこのキャバレー営業の相手代役に仕立て「(にせ)三波伸介[注 4]」として急場を凌いでいたが、三波は1960年初頭に失踪(その後大阪に行ったことが判明する)、伊東は「三波」の名でそのまま夜の代役営業を余儀なくされ、約一年余に渡り三波の帰京まで続けた。伊東はその代役期間にキャバレー従業員達とは顔馴染みになりステージも好評で、三波はコンビの復帰に際して[注 5]伊東との交代を避け[8]事務所には三人になったことを報告した。営業先のキャバレーショー司会者にコンビからトリオ再編になったことを告げる挨拶では、芸名「三波伸介」の扱いから「本当は伊東四朗、本当の三波伸介、本当に戸塚睦夫[注 6]」と幾分非常識な伊東の改名紹介も兼ねた(三波戸塚伊東トリオ)。やがて石井一座は1961年に解散し、伊東と戸塚はこちらを主点に置くようになったが(途中「三波戸塚伊東トリオ」から「ぐうたらトリオ」に改名)、三波はこの夜の仕事とは別に個人単独の仕事を求め活動しテレビ出演の機会を掴み、その繋がりからトリオも1962年、正式にてんぷくトリオ(当初の「ぐうたらトリオ」から改名)としてテレビや一般の舞台へと進出した。伊東の映画デビュー作は、ニュー東映東京『カメラ・トップ屋 お嬢さんが狙ってる/お色気無手勝流』(1961年、小石栄一監督)[9]。トリオブームの中堅として素地の軽演劇経験を生かし、コントなどで舞台やテレビで徐々に人気となり、三波のギャグ「びっくりしたなぁ、もぅ」が大当たりして、茶の間の人気お笑いグループとしての地位を確立した。てんぷくトリオが世に出るきっかけの基は三波個人(ソロ)活動にあり、三波はトリオの活動に重点を置いてはいたが、平行する個人活動の都合上、トリオの知名度や人気を利用して戸塚と伊東に二人か個別の活動を促していた。これを受けて努力家の伊東はダンスや楽器の練習などで芸を磨き、映画監督の市川崑は伊東を「てんぷくトリオの中の一番若くて一番やせている人。演技開眼したらしく、からだとセリフのタイミングが見事。おもしろい」と1968年に期待する新進として挙げていた[10]

1970年頃、『笑点』の札幌での収録において演芸にゲスト出演した際に、当時の司会者の前田武彦が荒天のため収録場所に到着できず、急遽三波が司会を代理担当したことがあった(三波は後に正式な司会に抜擢)。その際、座布団運びを特別に伊東が務めたことに起因して、伊東が正式な座布団運びに起用される可能性もあったというエピソードがある。

1972年から毎週日曜日に、三波らと共に出演していたNHKの『お笑いオンステージ』の1コーナー「てんぷく笑劇場」での活躍が代表的である[注 7]1973年戸塚睦夫が42歳で死去し、てんぷくトリオの活動に困難が生じるも、三波と二人で「てんぷく集団」として活動し、引き続き“てんぷく”の名を名乗ったが、次第にそれぞれの個人活動へシフトしている[要出典]。

1982年12月8日、三波が52歳で急死。訃報を聞いた際、伊東は三波が安置されている病院に向かい、報道陣の問いかけに「(三波の遺体を触った際に)まだ温かいんですよ。温かいものだから死んだ気がしなくて…」と語り、葬儀で号泣した[11]
小松政夫との共演とベンジャミン伊東(電線音頭)

1975年以降、三波の意向で「てんぷく」名での活動を抑制した頃、小松政夫との共演が話題になり、『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』での親子コントや「電線音頭」でのベンジャミン伊東、『笑って!笑って!!60分』での「小松の親分さん」などのネタで人気に火がついた。小松と2人で生み出したギャグがいくつもあるが、正月によく流れる琴による演奏の『春の海』を口で表現する「つん、つくつくつくつん。つん、つくつくつくつん。ひやーひんひらひらりー、べんべらべんべらべんべらべんべらべん」は伊東の発案である[要出典]。

「ずん」や「ニン」、「どーかひとつ」といったギャグも有名になった。特にベンジャミンとしてのスタイルは、藤田まことら古くからのコメディアン仲間から「あいつはバカになったのか!?」と驚嘆されるほどのインパクトがあり、小林信彦からは大いに絶賛された。それまで「てんぷくトリオ」のサブ的役割であった伊東が、にわかに芸能界で存在感を示し始め、1979年にはTBSザ・チャンス!』の二代目司会者に起用された。

「ベンジャミン伊東」のキャラクター案は、伊東が自身の威圧的な顔にコンプレックスを持っていたため、「怖い顔でも面白い人はいないのか?」と考えた時に「サーカスの団長」が思い浮かんだことが発端となっている。
喜劇役者として活動

1977年、TBSドラマ『ムー』で渡辺美佐子の夫役を演じて人気を博す。

1983年、『おしん』では父親役に抜擢される。ドラマの大ヒットとともに俳優としての認知度も高まり、活躍の場を広げた。

1992年から2015年までは『十津川警部シリーズ』で亀井定雄役を一貫して演じ、十津川省三役の渡瀬恒彦との名コンビで人気を博し、その他2時間ドラマでの主演も多い。

『おしん』以降、コメディアンと並行してシリアスな俳優としての存在感も高めた伊東であったが、自らを「喜劇役者」と位置づけており、「いつまでもそうあり続けたい」と語っている[12][13]。「三波も戸塚も死んだが、てんぷくトリオは解散したものではない、解散を口にしたことはない」[注 8]とも述べ、コメディへのこだわりも見せる。かつての喜劇役者仲間であり、親しい友人でもあった東八郎関敬六、また渥美清由利徹などといった浅草喜劇出身の役者たちが次々に冥界の人になって以後は、「浅草喜劇の伝統を後代へ引き継ぎたい」という想いと、「彼らの分まで、体が動く限り現役で頑張りたい」との想いが年々強くなっているとのこと[要出典]。

1997年三宅裕司小倉久寛らと共にオムニバスコントの舞台『いい加減にしてみました』を上演する(2002年・2010年にも上演)。この流れで、今ではあまり見られない典型的な喜劇軽演劇舞台を再現しようと、2004年、『伊東四朗一座 ?旗揚げ解散公演』を上演した(タイトルからも分かるように最初で最後の予定であった)。この公演は当日券を求める客があふれるほどで、多くのリクエストを受けて、翌2005年には『伊東四朗一座 ?急遽再結成公演?』を上演する。その後、2006年・2007年には伊東が参加しなかったため、三宅らは「熱海五郎一座」[注 9]と銘打って活動する。2008年には再び伊東が加わり「伊東四朗一座」として公演を行う。2009年には「伊東四朗一座・熱海五郎一座合同公演」が上演された。現在は年1回のペースで活動。伊東四朗一座の舞台公演作品はDVD化もされている。

この他にも舞台公演は精力的に行っている。角野卓造松金よね子佐藤B作あめくみちこらとともに「西荻窪エリアでお酒を飲みながら語らう会」(西荻の会)を結成し、実際に西荻窪エリアで酒を飲みながら語らっていたが、ある時会の外から「このメンバーで芝居を」との提案を受けたことから[要出典]、2011年に本多劇場にて西荻の会による介護コメディー『ロング・ロスト・フレンド』を上演した。
タレントとしての人気

テレビ草創期から活動しているタレントの一人としても知られる[14]

バラエティ番組の司会も数多く担当し、『伊東家の食卓』には「お父さん」役で約9年半出演した。

CMでは『白子のり』のイメージキャラクターを長年務めていることで有名。
人物・エピソード

伊東がまだ学生だった頃、芝居の台本を持ち込んで教えを請おうと思い立って無謀にも
二世尾上松緑と面会するべく歌舞伎座を訪れた際、追い返そうとする番頭を二世松緑がたしなめ、自ら伊東を楽屋に通し、伊東が書いた芝居の台本を読んでアドバイスをした上に、その当時、二世松緑の弟子であった四代目坂東鶴之助(後の五世中村富十郎)に松緑が「この若い者(伊東)に女形芸について教えてあげなさい」と指示し、鶴之助から女形についてのレクチャーを受けた[15]

森繁久彌から『屋根の上のバイオリン弾き』への出演を打診されたが「(森繁久彌の)ファンのままでいたい」と断っている[16]

2011年、したまちコメディ映画祭in台東において「第4回コメディ栄誉賞」を受賞[17]


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