伊勢神宮
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伊勢神宮は皇室氏神である天照大御神を祀るため、歴史的に皇室・朝廷の権威との結びつきが強い[13]。神宮の神体である八咫鏡は、宮中三殿賢所に祀られる御鏡と一体不可分の関係とされ[14]、神宮祭祀と宮中祭祀は一体性をもって行われてきた[15]。また、南北朝時代に途絶するまで、未婚の皇女が宮中から派遣され、神宮に奉仕する斎宮の制度が設けられていた[16]。現代でも天皇皇后が参拝[17]するほか、神宮の神嘗祭に際しては毎年天皇から勅使が派遣され[18]、神宮の祭主を元皇族の女性が務めるなど、天皇と神宮の繋がりは深い。

また、伊勢神宮は古代には国家全体の神として天皇による公的祭祀が行われ、個々人が私的な幣帛を奉る行為は禁止されていた[19]。このため、創建以来一貫して、朝廷、幕府明治政府といった歴史上の政府により、国家的な管理・維持が行なわれてきた[20]後述)。第二次世界大戦後に、伊勢神宮は国家の管理から離れ、法的には一宗教法人となった[20]が、現代においても内閣総理大臣および農林水産大臣などが年始に参拝することが慣例となっている[21]

中世以降は、このような天皇の祖神としての性格や公的な性格に加え、「国家の総鎮守」として庶民を含むあらゆる階層から信仰を集め膨大な数の参拝者を生むようになり、とりわけ江戸時代には短期間で数百万人が参拝する「お蔭参り」が生じるなど、伊勢神宮は日本の信仰の中心地となった[22]後述)。
祭神

主祭神は以下の2柱。

皇大神宮:内宮(ないくう)

天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ) - 一般には天照大御神として知られる。


豊受大神宮:外宮(げくう)

豊受大御神(とようけのおおみかみ)

主祭神以外については、各宮の項目を参照。
役員

祭主黒田清子(第125代天皇明仁第1皇女子、第126代天皇(徳仁)妹)


大宮司久邇朝尊(旧皇族久邇宮子孫、第126代天皇(徳仁)再従兄弟)[23]

創祀
神話矢沢弦月『皇大神宮奉祀』、1933年

天孫・邇邇芸命が降臨した(天孫降臨)際、天照大御神は三種の神器を授け、その一つ八咫鏡に「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。」(『日本書紀』)として天照大御神自身の神霊を込めたとされる。この鏡は神武天皇に伝えられ、以後、代々の天皇の側に置かれた。しかし、第10代崇神天皇の治世に、鏡は大和笠縫邑に移され、皇女豊鍬入姫がこれを祀ることとされた。これは、崇神天皇5年に、疫病が流行り多くの人民が死に絶えたことで、天皇の側で神鏡を祀っているのが恐れ多いことであると考えられ、崇神天皇6年に従来宮中に祀られていた天照大御神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移したのである。

その後八咫鏡は皇女倭姫命に託され、倭姫命は天照大御神の神魂(すなわち八咫鏡)を鎮座させる地を求め旅をして各地を移動した。『日本書紀』に「倭姫命、菟田(うだ)の篠幡(ささはた)に祀り、さらに還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る。」とある通り、垂仁天皇25年3月に倭姫命は伊勢に至った(元伊勢伝承)。倭姫命が伊勢に至ると、天照大御神から「この神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うまし)国なり。この国に居(を)らむと欲(おも)ふ」との神託が降り、伊勢の地に鎮座することが決まったのである。移動中に一時的に鎮座された場所は元伊勢と呼ばれている。なお『古事記』には、この経緯について崇神天皇記と垂仁天皇記の分注に伊勢大神の宮を祀ったとのみ記されている。

外宮は、平安時代初期の『止由気宮儀式帳』(とゆけぐうぎしきちょう)[注釈 4]によれば、雄略天皇22年7月に、天照大御神から雄略天皇に「吾一所に坐せば甚(はなはだ)苦し。しかのみならず大御饌も安く聞召(きこしめ)さず坐すが故に、丹波国(後に丹後国として分割)の比沼真奈井(ひじのまない)に坐す我が御饌都神(みけつかみ)、等由気大神(とゆけのおおかみ)を我が許に欲す」との神託があったとされ、この神託の通り、豊受大神を丹波国の真奈井原(まないはら)から伊勢山田原へ、天照大御神の食事を司るための神として遷座したことが起源とされる。
考証

津田左右吉の研究以来、歴史学においては『古事記』や『日本書紀』の応神天皇条以前の記述は神話であり、歴史的事実とは考えられていない。そのため、これまでに多くの研究者が、複数の学術分野から伊勢神宮の史実上の創祀年代について検討してきた。他方で、『日本書紀』の神宮創祀伝承の箇所の異伝に、神宮の創始を「丁巳年」と記していることについて、伝承の内容は史実でなくとも、干支に関しては実際の創祀年がそのまま記述された可能性が高いとして、丁巳に該当する西暦年の中から、最も可能性が高いと考えられる年号を伊勢神宮の創祀年と想定する見解も複数示された[24]

これまでに提示されてきた伊勢神宮創祀年の主な説としては、垂仁朝説、5世紀後半の雄略朝説、6世紀前半の継体もしくは欽明朝説、6世紀後半の用明推古朝説、7世紀後半の天武持統朝説、7世紀末の文武朝説などが挙げられる[25]

成立を最も早く見る垂仁朝説には、歴史学者の阪本広太郎、田中卓岡田登らがいる[26]。阪本は、日本神話の神宮創祀伝承を史実として認める立場をとり、伝承の通り倭姫命が垂仁天皇25年に倭笠縫邑を発し、その後の伊勢までの巡行に1年を要したとして、丁巳年に当たる垂仁天皇26年に伊勢神宮が創祀されたとする説を提示し、その西暦年代については『日本書紀』の紀年法に従って機械的に換算した紀元前4年とした[26]。なお、阪本の説は、阪本が著し神宮司庁により発行された『神宮祭祀概説』が採用している説であり、現在の伊勢神宮の公式見解とされる[27]。岡田登も、神宮創始を垂仁天皇26年とした上で、それに該当する西暦年代については、『日本書紀』の讖緯説に基づく暦の修正、箸墓古墳の炭素年代測定に基づく年代、他の文献の崇神天皇・垂仁天皇の崩御干支などから、297年に比定した[27]。田中卓も、神宮創祀は垂仁天皇朝だとし、その西暦年代は3世紀であると推定した[28]

5世紀後半の雄略朝説と見る立場の主な研究者には歴史学者の岡田精司らがいる[25]。岡田は、ヤマト王権が中国への朝貢を停止し、冊封体制から離脱を図った5世紀後半の雄略天皇の時代に、王権の強化を図る必要性から王権祭祀が改革され、東国経営の進展と相まって大王守護神の斎場が大和地域から伊勢地域に移されて伊勢神宮が成立したと主張した[29]。そして、雄略天皇の治世下でかつ丁巳年に該当する477年を、伊勢神宮の具体的な創祀年代と結論づけた[30]。岡田は、『皇大神宮儀式帳』にも「度会宮」の創始年として雄略天皇の「丁巳年」(すなわち477年)とあることに着目し、この「度会宮」は外宮を指すものではなく、内宮と外宮が分離する以前の最初期の伊勢神宮の呼称であるとし、477年成立説の根拠の一つとした[30]


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