伊勢神宮
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他の神宮と区別するために、「伊勢」の地名を冠し伊勢神宮と通称される。

「伊勢の神宮」[2]、または親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」[3]とも称される。古来、最高の特別格の宮とされ[4]、現在は神社本庁の本宗(ほんそう。全ての神社の上に立つ神社)であり、「日本国民の総氏神」とされる[5]

律令国家体制における神祇体系のうちで最高位を占め[6]平安時代には二十二社の中のさらに上七社の1社[注釈 2]となった。また、神階が授与されたことのない神社の一つ[注釈 3]明治時代から太平洋戦争前までの近代社格制度においては、全ての神社の上に位置する神社として社格の対象外とされた。
概要

伊勢神宮には天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ。天照大御神)を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、一般に皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれる[7]

広義には、別宮(べつぐう)、摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)、所管社(しょかんしゃ)を含めた合計125の社宮を「神宮」と総称する[8]。この場合、所在地は三重県内の4市2郡に分布する(後述[9]

他の多くの神社は屋根や塗りの建物に変わっていったが、伊勢神宮は神明造という古代の建築様式を受け継いでいる[10]。これは弥生時代高床倉庫が起源で、神へのお供え物をする特別な建物だったといわれている[10]。また、式年遷宮が20年に一度行われる(後述)。この他、近世以前には、仏教用語を用いない「忌詞」の制度や[11]、僧尼の立ち入りを制限する「僧尼遥拝所」が存在し[12]神宮寺も早期に廃止される[11]など、伊勢神宮では祭儀が一定程度古儀のまま継承された。

伊勢神宮は皇室氏神である天照大御神を祀るため、歴史的に皇室・朝廷の権威との結びつきが強い[13]。神宮の神体である八咫鏡は、宮中三殿賢所に祀られる御鏡と一体不可分の関係とされ[14]、神宮祭祀と宮中祭祀は一体性をもって行われてきた[15]。また、南北朝時代に途絶するまで、未婚の皇女が宮中から派遣され、神宮に奉仕する斎宮の制度が設けられていた[16]。現代でも天皇皇后が参拝[17]するほか、神宮の神嘗祭に際しては毎年天皇から勅使が派遣され[18]、神宮の祭主を元皇族の女性が務めるなど、天皇と神宮の繋がりは深い。

また、伊勢神宮は古代には国家全体の神として天皇による公的祭祀が行われ、個々人が私的な幣帛を奉る行為は禁止されていた[19]。このため、創建以来一貫して、朝廷、幕府明治政府といった歴史上の政府により、国家的な管理・維持が行なわれてきた[20]後述)。第二次世界大戦後に、伊勢神宮は国家の管理から離れ、法的には一宗教法人となった[20]が、現代においても内閣総理大臣および農林水産大臣などが年始に参拝することが慣例となっている[21]

中世以降は、このような天皇の祖神としての性格や公的な性格に加え、「国家の総鎮守」として庶民を含むあらゆる階層から信仰を集め膨大な数の参拝者を生むようになり、とりわけ江戸時代には短期間で数百万人が参拝する「お蔭参り」が生じるなど、伊勢神宮は日本の信仰の中心地となった[22]後述)。
祭神

主祭神は以下の2柱。

皇大神宮:内宮(ないくう)

天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ) - 一般には天照大御神として知られる。


豊受大神宮:外宮(げくう)

豊受大御神(とようけのおおみかみ)

主祭神以外については、各宮の項目を参照。
役員

祭主黒田清子(第125代天皇明仁第1皇女子、第126代天皇(徳仁)妹)


大宮司久邇朝尊(旧皇族久邇宮子孫、第126代天皇(徳仁)再従兄弟)[23]

創祀
神話矢沢弦月『皇大神宮奉祀』、1933年

天孫・邇邇芸命が降臨した(天孫降臨)際、天照大御神は三種の神器を授け、その一つ八咫鏡に「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。」(『日本書紀』)として天照大御神自身の神霊を込めたとされる。この鏡は神武天皇に伝えられ、以後、代々の天皇の側に置かれた。しかし、第10代崇神天皇の治世に、鏡は大和笠縫邑に移され、皇女豊鍬入姫がこれを祀ることとされた。これは、崇神天皇5年に、疫病が流行り多くの人民が死に絶えたことで、天皇の側で神鏡を祀っているのが恐れ多いことであると考えられ、崇神天皇6年に従来宮中に祀られていた天照大御神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移したのである。

その後八咫鏡は皇女倭姫命に託され、倭姫命は天照大御神の神魂(すなわち八咫鏡)を鎮座させる地を求め旅をして各地を移動した。『日本書紀』に「倭姫命、菟田(うだ)の篠幡(ささはた)に祀り、さらに還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る。」とある通り、垂仁天皇25年3月に倭姫命は伊勢に至った(元伊勢伝承)。倭姫命が伊勢に至ると、天照大御神から「この神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うまし)国なり。この国に居(を)らむと欲(おも)ふ」との神託が降り、伊勢の地に鎮座することが決まったのである。移動中に一時的に鎮座された場所は元伊勢と呼ばれている。なお『古事記』には、この経緯について崇神天皇記と垂仁天皇記の分注に伊勢大神の宮を祀ったとのみ記されている。

外宮は、平安時代初期の『止由気宮儀式帳』(とゆけぐうぎしきちょう)[注釈 4]によれば、雄略天皇22年7月に、天照大御神から雄略天皇に「吾一所に坐せば甚(はなはだ)苦し。しかのみならず大御饌も安く聞召(きこしめ)さず坐すが故に、丹波国(後に丹後国として分割)の比沼真奈井(ひじのまない)に坐す我が御饌都神(みけつかみ)、等由気大神(とゆけのおおかみ)を我が許に欲す」との神託があったとされ、この神託の通り、豊受大神を丹波国の真奈井原(まないはら)から伊勢山田原へ、天照大御神の食事を司るための神として遷座したことが起源とされる。
考証

津田左右吉の研究以来、歴史学においては『古事記』や『日本書紀』の応神天皇条以前の記述は神話であり、歴史的事実とは考えられていない。そのため、これまでに多くの研究者が、複数の学術分野から伊勢神宮の史実上の創祀年代について検討してきた。


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