伊丹万作
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この頃2人でしきりに映画を見て歩いており、好きな俳優はフランク・キーナンだったという[7][12]。また、この頃の挿絵の収入は百円内外あったという[11]。同年、さらに絵画を勉強するためと、肺病で松山に療養している親友の野田実を見舞うために松山に帰省する[10][11][注釈 4]

1923年(大正12年)、関東大震災後に上京、長崎村初山滋と同居し、後に隣に小さな家を借りて自炊生活をした[10][11][12]1925年(大正14年)、中村草田男、重松鶴之助らと回覧雑誌『朱樂』を作り、絵画の他、随筆・評論なども発表する[6]。一方、芸術性を追求するうちに挿絵の仕事は減り、1926年(大正15年)には松山に帰郷して重松、白川晴一と松山市三番町におでん屋「瓢太郎」を開店する[6][注釈 5]。始めは繁盛したが、年明け頃から経営は悪化し、1927年(昭和2年)夏に借金を残して閉店した[7][13]。同年、知人夫妻を描いた油彩画『市河夫妻之像』が岸田劉生の目に留まり、激賞される。この絵は中村草田男によって第1回大調和美術展に搬入され入選したが、画家の道は断念している[6]

同年10月、京都に暮らしていた伊藤大輔に手紙を出して彼の食客となった[14]。当時伊藤の食客だった人に香川良介と中川藤吉[注釈 6] がいる[7]。伊藤のすすめで映画脚本を書くようになり、『花火』と『伊達主水[注釈 7] を執筆する[3][7][14]。11月、奈良谷崎十郎プロダクションが設立されると、香川、中川らとともに同プロに入り、俳優としての日々を過ごした[7][14]。奈良には1か月しかいなかったが、その間に書いた脚本が『草鞋』であった。12月、香川の台湾巡業に同行し、俳優として舞台に立った[7][14]
映画監督へ

1928年(昭和3年)4月、台湾から帰国した万作は、5月10日に設立された片岡千恵蔵プロダクション(略称:千恵プロ)に脚本家兼助監督として入社し、同プロ第1回作品『天下太平記』で脚本を執筆する[3][7][14]。この時から伊丹万作の名を使用した(この名は伊藤大輔が命名した[1])。同年11月には『草鞋』を映画化した『仇討流転』で監督デビューする。しかし、体が弱かった万作は同年に病気療養のため松山へ移り、そこで『絵本武者修行』と『金忠輔』[注釈 8] のシナリオを執筆した。前者は自身でメガホンを取るものの、撮影開始直前に病気が再発したため稲垣浩が代わりに監督して完成された[14][15][16]

1930年(昭和5年)、野田実の妹であるキミと松山で結婚[6][17]。この年に監督復帰し、『春風の彼方へ』『源氏小僧出現』『逃げ行く小伝次』の3作を発表。1931年(昭和6年)4月、林不忘原作の『刀傷未遂』を『元禄十三年』と改題して脚色するが、シナリオ改訂中に病臥に伏したため、本作も稲垣が代わりに監督して完成させた[18]。同年は同作の他『金的力太郎』と『花火』を監督している。

1932年(昭和7年)、伊勢野重任原作の『國士無双』を監督。本物の剣豪が贋物に敗れるという内容で、その知的で諧謔に満ちたユーモアが注目を浴びた。また、この作品は「これまでの日本映画監督が持っていなかった〈散文精神〉を作品の中に盛り込んだ[1]」と絶賛され、キネマ旬報ベスト・テンに第6位でランクインした。続いて村松梢風原作の『人間飢饉』を脚色・監督した『闇討渡世』を発表し、風刺と諧謔の精神で平手造酒の孤独を描いたが[19]、検閲により大幅にカットされた[6]

1933年(昭和8年)、自身初のトーキーとなる予定だった『江戸ッ子神楽』の撮影を行うが、片岡千恵蔵と意見が衝突し撮影は中止となる[20][21]。代わって佐伯清が書いたシナリオを脚色した『渡鳥木曾土産』を監督し、続いて山手樹一郎原作の『一年余日』を脚色・監督した『武道大鑑』を年またぎで製作。『武道大鑑』製作後の1934年(昭和9年)、伊藤監督の『忠臣蔵 刃傷篇 復讐篇』で脚本と応援監督を務めたのを経て、5月に千恵プロを退社して新興キネマに移籍[6][20]1935年(昭和10年)に移籍第1作で、自身初のトーキーとなる『忠次売出す』を発表。同年、千恵プロに出向して『戦国奇譚 気まぐれ冠者』を脚本・監督した[22][23]

1936年(昭和11年)、千恵プロの日活提携復帰作品となった『赤西蠣太』を監督。志賀直哉の短編小説を原作に、伊達騒動を背景に醜男の武士の恋を描いたこの作品は、作者の志賀本人も大絶賛し[3]、キネマ旬報ベスト・テン第5位になるなど高い評価を受けた。伊丹にとっても『國士無双』と並ぶ代表作となった。

同年、アーノルト・ファンク監督の日独合作『新しき土』で共同監督に要請され、万作は「自分の本領はシナリオにあって、監督にはない」と主張して固辞するがきかれず[21][24]、共同監督を務めることになった。しかし、脚本執筆時からファンクとは意見が対立し、万作はファンクとは別に作品を撮り、結果、ファンク版(ドイツ版)と伊丹版(米英版)の異なるバージョンが完成した[25]。万作は「撮影には二倍の時間と労力を費やし、一年間の精力を意もなく浪費したのである[26]」と本作のことを語っており、彼の失敗作となった。

1937年(昭和12年)、J.O.スタヂオ金子洋文原作の『故郷』と、岡本綺堂原作の『権三と助十』を脚色・監督。同年9月10日、J.O.スタヂオと他3社[注釈 9] の合併で東宝映画が設立され、万作は東宝映画東京撮影所に移籍する。


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