任侠路線は通常は明治から昭和初めを時代背景とし[1]、着流し姿の主人公ががまんを重ねて最後に義理人情に駆られて仇討ちに行くというほぼ似通った筋立てで[出典 23]、『人生劇場 飛車角』シリーズに始まって[3]、『博徒』、『日本侠客伝』[3]、『関東流れ者』、『網走番外地』、『昭和残侠伝』[3]、『兄弟仁義』、『博奕打ち』、『緋牡丹博徒』[3]、『日本女侠伝』の各シリーズで頂点を迎えた[出典 24]。俳優は鶴田浩二・高倉健・藤純子・北島三郎、村田英雄らが主役になり[出典 25]、池部良・若山富三郎・田中邦衛・待田京介・丹波哲郎・嵐寛寿郎・安部徹・松方弘樹・梅宮辰夫、大原麗子・三田佳子・佐久間良子らが脇を添えた[出典 26]。マキノ雅弘・佐伯清・加藤泰・小沢茂弘・石井輝男・山下耕作らがメガホンを取った[出典 27]。任侠路線は当時、サラリーマン・職人から本業のヤクザ・学生運動の闘士たちにまで人気があり、「一日の運動が終わると映画館に直行し、映画に喝さいを送った」という学生もいた[42]。『博奕打ち』シリーズ第4作『博奕打ち 総長賭博』は三島由紀夫に絶賛された[出典 28]。当時のヤクザ映画は、60年安保に揺れる「政治の季節」を反映していた[2]。村上春樹は、早稲田大学に在学中の1960年代の後半は「大学へはほとんど行かず、新宿でアルバイトなどをしながら、歌舞伎町東映でほとんど毎週ヤクザ映画を観ていた」と話している[59]。また大島渚や山田太一[60]、倉本聰らも東映任侠映画のファンだったと話している。柏原寛司は「メインの高倉健さん、鶴田浩二さんがいて、ゲストに嵐寛寿郎とか北島三郎とか、みんな立てて見せ場を作って、徐々に整理していって、最後、メインの対決にいく。すごいテクニック。東映の任侠映画は、プロのシナリオ術の基本」と述べている[61]。1970年代前半には、東映はそれまでの高倉健による着物に日本刀といった任侠路線から、菅原文太の現代ヤクザが主役となった『仁義なき戦い』へと路線変更をおこない[出典 29]、選手交替する形で任侠映画は消えた[3]。 1963年の東映東京撮影所による『人生劇場 飛車角』を皮切りに、義理人情に厚くヤクザの人間模様を描く作品が続々と製作されていった[出典 30]。同撮影所では『網走番外地シリーズ』、『昭和残侠伝シリーズ』、『子守唄シリーズ』、『現代やくざシリーズ』、『関東テキヤ一家シリーズ』を[出典 31]、高倉健・菅原文太・千葉真一の主演で、石井輝男・佐伯清・鷹森立一・降旗康男・鈴木則文が監督として参画している[出典 32]。 一方の東映京都撮影所は1950年代、時代劇ブームで絶好調だったものの、1961年と1962年に、仲代達矢主演の本格時代劇『用心棒』、『椿三十郎』がヒットすると、東映京都で製作された時代劇では浪人も貧しい町人もヤクザもきれいな厚化粧をしており、刀で斬っても血も音も出ない旧来の歌舞伎なため、客足はみるみる減っていった。「時代劇の東映」と言われ、観客動員No.1だった東映は、他社のように現代劇でカバーできず、深刻な影響を受けた。東映京都では、客が入らなくなっていた時代劇を止め、ヤクザ映画に切り替え、量産し始める[出典 33]。『博徒シリーズ』、『日本侠客伝シリーズ』、『極道シリーズ』、『緋牡丹博徒シリーズ』を鶴田浩二・若山富三郎・高倉・藤純子の主演で[出典 34]、メガホンを小沢茂弘・マキノ雅弘・山下耕作・鈴木・加藤泰が執った[出典 35]。 両撮影所の上記作品には、助演として片岡千恵蔵・嵐寛寿郎・丹波哲郎・池部良・安部徹・田中邦衛・待田京介・山城新伍・梅宮辰夫・三田佳子・松方弘樹・大原麗子・渡瀬恒彦らが出演していた[出典 36]。映画プロデューサーには岡田茂と俊藤浩滋がおり[出典 37]、特に俊藤は任侠路線を定着させ、次々とヒット作を世に送り出し、その功績は大きい[65]。サラリーマン・自営業・職人から本業のヤクザ・学生運動の闘士たちにまで人気があり、「一日の運動が終わると映画館に直行し、映画に喝采を送った」という学生もいた[42]。1968年の東京大学駒場際のポスターでは『昭和残侠伝 唐獅子牡丹』の主題歌の歌詞を捩った「とめてくれるなおっかさん/背中のいちょうが泣いている/男東大どこへ行く」(橋本治)というキャッチコピーが掲げられるなど[66]、東映任侠映画は時代の空気をいっぱいに孕んだサブカル的アイコンでさえあった。
東映東京
東映京都