仮名遣い
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やがて元禄時代に契沖が、奈良時代から平安時代中期の文献に基づいて徹底した実証的な研究を行った[30]。そこで契沖は、定家仮名遣いが上代の文献とは相違することを突き止め、「濫れを正す」として『和字正濫鈔』を著した(1695年刊)。

契沖の仮名遣いはすぐに受け入れられたわけではなかった。 橘成員は『倭字古今通例全書』を著して契沖の仮名遣いとは異なり、定家仮名遣いに近い仮名遣いを示した。契沖はこれを自著に対する批判と受け取り、『和字正濫通妨抄』で感情的な反論をしたがこれはついに出版されなかった[31]

契沖仮名遣いで用いられる仮名の体系は、いろは47文字の体系で解釈するものである[32]。つまりア行のエとヤ行のエの区別や上代特殊仮名遣の区別などは採用されなかった。また契沖は五十音図を作成したが、「を」をア行に、「お」をワ行に宛ててしまった[33]。これは後に本居宣長によって、現在と同じような位置に訂正された。

江戸時代中期には契沖仮名遣いを継承する国学者が現れた。楫取魚彦の『古言梯』(こげんてい、ふることのかけはし[注 3]1768年ごろから刊)、そして本居宣長の『字音仮字用格』(じおんかなづかい、もじごえのかなづかい、1776年刊)等である。楫取魚彦

魚彦は、『和字正濫鈔』に典拠が少ないことを問題として、記紀万葉などの古典のみならず、新たな出典として『新撰字鏡』などを挙げながら、1883語[注 4]を五十音順に排列して仮名遣いを示した。本書は広く流布し、魚彦の没後には各人による補訂増補版が出版されている。藤重匹龍『掌中古言梯』(1808年〈文化5年〉刊)、村田春海清水浜臣『古言梯再考増補標註』(1821年〈文政4年〉[注 5]刊)、『袖珍古言梯』(1834年〈天保5年〉刊)、山田常典『増補古言梯標註』(1847年〈弘化4年〉刊)である[35]。これらのほかにも、市岡猛彦『雅言仮字格』(1807年〈文化4年〉刊)、鶴峯戊申『増補正誤仮名遣』(1847年〈弘化4年〉刊)などがある[36]本居宣長

宣長は、中国の漢字音を整理した『韻鏡』なども利用して、日本漢字音の仮名遣いを体系的に整理した。その結果、万葉仮名の「お」「を」がそれぞれア行、ワ行に属することが明らかになった。しかし、韻尾の -n と -m の区別を廃して一律に「-ム」としてしまった[37]。これが誤りであることは後述する。その他にも後代に賛成を得られなかった点は少なくないが、字音仮名遣い研究の基礎となった[38]。そのほか白井広蔭『音韻仮字用例』(おんいんかなようれい、1860年刊)などもある。

こうして国学が興るとともに、契沖仮名遣いは、和歌・和文や国学の著作に用いられたが、日常の俗文をも規制するものではなかった。宣長も俗文を作文する際には当時一般の仮名の用い方をしている。
明治以降の歴史的仮名遣い

明治政府は中央集権的に諸制度を整備していったが、学制の公布に伴い、学校教科書の日本語をも整備していった。その際、歴史的仮名遣いが採用された。歴史的仮名遣いの推進者は物集高見あるいは榊原芳野とされる[注 6]。榊原は『小学読本』(明治6年〈1873年〉)の例言において、ア行のイとヤ行のイ、ア行のウとワ行のウ、ア行のエとヤ行のエを区別しないとし、ここで歴史的仮名遣いがいろは47文字(「ん」を含めて48字)の体系となった[注 7]

大槻文彦は近代的な国語辞書『言海』を著し(1891年〈明治24年〉)、ここで採用された歴史的仮名遣いは一般への普及に役立った[41]

このようにして整備された歴史的仮名遣いは、契沖仮名遣いが和文や国学者に限られていたのに対し、学制や言文一致運動以後、口語文でも用いられていった。しかし完全には守られず、一般への普及には数十年かかった。例えば明治初期の仮名垣魯文樋口一葉はいまだ恣意的な仮名遣いであったが、夏目漱石に至るとほとんど歴史的仮名遣いで統一されるもののいまだ合わない例も見られ、石川啄木に至っても合わない例がある[42]

しかしそもそも正しい歴史的仮名遣いを確定することの難しい語もある。1912年(大正元年)と1915年(大正4年)に文部省国語調査委員会は『疑問仮名遣』(前後編)を発行し、最新の研究に基づく正しい仮名遣いを決定しようとした。『竹取物語』『伊勢物語』などは平安時代の写本がないので仮名遣いの確かな資料にはならない[43]。そのため平安時代の資料には訓点資料が多数採用された。この研究によって「あるいは」「もちゐる」などが確定した[44]。このようにして契沖以来の歴史的仮名遣いは、大正に至って一応の完成を見た[45]。しかし「うずくまる」「いちょう(鴨脚子)」「がへんず(肯)」など、いまだに説が分かれていたり、確定をみていない語も残っている[46]。そもそも平安時代に存在しなかった語形(「-ましょう」など)に対して歴史的仮名遣いを決定することには無理がある[47]との考えもある。

漢字音の仮名遣い(字音仮名遣い)については更に後世の研究に待つことになった[48]。例えば本居宣長は「推」「類」などを「スヰ」「ルヰ」としたが、満田新造は1920年(大正9年)に「スイ」「ルイ」の形が正しいと主張し、古例はみなそうであることが大矢透などによって確かめられた。同様に「衆」「中」などを宣長は「シユウ」「チユウ」としたが、現在は契沖が採用した「シウ」「チウ」の方が古例であることがわかっている[49]。しかしこのような学問的に決められた仮名遣いは、必ずしも一般の国語辞典・漢和辞典にすぐに採用されたわけではなく、旧説と新説が混在することもあった。「スイ」「ルイ」の説は、『明解古語辞典』(1953年)をはじめとして『日本国語大辞典』(1972年?1976年)、『古語大辞典』(1983年)、『角川古語大辞典』(1982年)などに新説が採用されたが、『大漢和辞典』(1955年?1960年)では旧説「スヰ」「ルヰ」のままである[50]。このように、字音仮名遣いはいまだに完成していない[51]
「棒引き仮名遣い」と「仮名遣改定案」

明治政府の策定しようとした歴史的仮名遣いは、必ずしも受け入れられたわけではなかった。もっと発音通りにして記憶の負担を軽くしようという反対論も根強かった。

実際、国定教科書において1904年度(明治37年度)から1909年度(明治42年度)までの6年間、俗に「棒引き仮名遣い」と呼ばれるものが行われた。これは字音の長音を発音通りに長音符「ー」で統一的に表記するものであった。例えば「ホントー デス カ」「ききょーもさいてゐます」のようなものである[52]

1924年(大正13年)、臨時国語調査会の総会において、表音式の「仮名遣改定案」が可決された。拗音の「ゃ・ゅ・ょ」や促音の「っ」を右下に小さく書くほか、例外なく「じ・ず」に統一し、「通る」「遠い」も「トウる」「トウい」にし、「言う」を「ユう」とするなど、急進的なものであった[53]。しかし山田孝雄芥川龍之介与謝野晶子橋本進吉などの反対論があり、日の目を見なかった[53]。その後も修正案が作られ、第二次世界大戦を迎える。
「現代かなづかい」の公布

第二次大戦後、国語改革が行われ、1946年(昭和21年)当用漢字表などとともに「現代かなづかい」が内閣訓令として公布された。これは歴史的仮名遣いに比べて表音主義に基づくものであり、現代語の同じ音韻に対して同じ仮名を用いるものであった。ただし助詞の「は」「を」「へ」や「ぢ」「づ」、長音などには歴史的仮名遣いを継承した部分もある。従って「現代かなづかい」は「現代語音」に基づくとはいえ、正書法(正字法、オーソグラフィ)であって「表音式かなづかい」ではなく[54]、表音式の原理と「かつて書かれていたように書く」という慣習の原理とを併用している[55]


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