仮名手本忠臣蔵
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そんな武士たちの話をわかり易いように仮名書きにして、これから説明することにしよう…という大意で、要するにこれから「忠」も「武勇」も備わった「よき武士」、すなわち大名塩冶家に仕えた者たち(赤穂浪士)のことについて語ろうということである。
あらすじ(大序)

(鶴岡兜改めの段)時に暦応元年二月下旬のことである。

将軍足利尊氏は南朝方の新田義貞を討ち滅ぼし、南北朝の動乱は収まりつつあった。鎌倉の鶴岡八幡宮では社殿の造替を済ませたので、尊氏の弟である左兵衛督直義が京から鎌倉へと下向し、今日は将軍尊氏の代参として鶴岡八幡へと参詣するところである。幕を張った馬場先にいる直義は大勢の供を従え、供の中には鎌倉在住の執事職高武蔵守師直、さらに直義の饗応役として桃井若狭之助安近と塩冶判官高定が任ぜられて控えている。「忠臣蔵 大序」 新田義貞着用の兜を見極めるため、塩冶判官の妻かほよ御前が直義の前に呼ばれる。場面は鶴岡八幡の境内、画面左脇には大銀杏の木が見える。石段にはかほよ御前、そのすぐ左下には仕丁ふたりが、兜を収めた唐櫃を抱えて運ぶ。歌川広重画。

皆の前には唐櫃がひとつ置かれていた。直義には鶴岡代参のほかに、いまひとつ尊氏に命じられたことがあり、それは討取った新田義貞着用の兜を探しだし、これを鶴岡八幡宮の宝蔵に納めることであった。その兜というのが後醍醐天皇から下賜されたものであり、また義貞が清和源氏の血筋であるのを誉れとしたことによる。しかし義貞が死んだとき、そのそばには四十七もの兜が散らばってどれが義貞の兜なのか判らず、とりあえずそれらの兜を集め、この唐櫃にまとめて入れていたのである。この中から義貞がかぶったという兜を探し出し、鶴岡八幡に納めなければならない。

だが兜を納めようという直義に師直は「これは思ひ寄らざる御事」と口を挟み、清和源氏の血筋はいくらでもいる、そんな理由で義貞の兜をもったいぶって扱う必要はないという。これに桃井若狭之助が声をあげ、これは義貞軍の残党を懐柔し降参させようという将軍尊氏公の御計略であろう、「無用との御評議卒爾なり」と言おうとするのを師直はさえぎる。もしこの中から間違って義貞のものではない兜を選んでは後に大きな恥となることだ。「なま若輩ななりをしてお尋ねもなき評議、すっこんでお居やれ」と頭ごなしに怒鳴りつけた。これに目の色を変える若狭之助、それを察した塩冶判官が言葉を添え、直義の判断を仰ぐ。直義には兜の見極めについて考えがあった。かつて宮中に内侍として奉仕し、後醍醐天皇より義貞に兜が下賜されるのを目にしていたかほよ御前を、この場に呼び出したのである。かほよ御前は塩冶判官の妻である。かほよは唐櫃のなかからひとつの兜を取り出し、蘭奢待の香るこの兜こそ義貞着用のものに間違いないと差し出した。

見極められた兜を直ちに宝蔵に納めようと、直義は塩冶判官と若狭之助を連れて社殿に向かいその場を離れた。するとかほよの美貌に以前より執着していた師直がかほよに言寄り、付け文を無理やり渡そうとする。困惑するかほよ。そこへ折りよく来合わせた若狭之助にかほよは助けられたが、邪魔されて怒り心頭に発した師直は若狭之助を散々に口汚く罵り、これに怒った若狭之助は師直へ刃傷に及ぼうとする。しかし直義が帰館のため、判官も含めた供の者を従えて通りかかるので、若狭之助は無念ながらもこの場では自重するのだった。

⇒(二段目あらすじ
解説(大序)

江戸時代、文芸や戯曲においてその時々に起こった事件をそのまま取り上げることは、幕府より禁じられていた。加賀騒動をはじめとするお家騒動を記した実録本なども出版を禁じられており、写本の形でのちにまで伝わっている。赤穂事件もある意味武家社会の醜聞ともいえる事件であり、これを取り上げることは幕政批判に通じかねないことから、人形浄瑠璃や歌舞伎の芝居においても、興行する側は相当の用心を以ってこの事件を脚色し、上演していた。それは本来の時代や人物の名前などを、違う時代や人物に置き換えて脚色することで抜け道としたのである。その時代や人物も「小栗判官」や「太平記」などさまざまだったが、この『仮名手本忠臣蔵』では近松の『碁盤太平記』に見られる設定や人物名、すなわち「太平記」の「世界」を借りている。それは直接には、『太平記』巻二十一「塩冶判官讒死の事」を題材としたものである。「大序」 四代目坂東三津五郎の高師直、三代目岩井粂三郎のかほ世御前。嘉永2年(1849年)7月、江戸中村座三代目歌川豊国画。

「塩冶判官讒死の事」のあらましは、高師直が塩冶判官高貞の妻の美しさを聞きつけこれに執心し、恋文を送るが判官の妻からは拒絶される。これに腹を立てた師直が将軍尊氏や直義に判官のことを讒言した結果、判官は謀叛の汚名を着せられ、最後は判官やその妻子も無残な死を遂げるというもので、この話をもとに『仮名手本忠臣蔵』は吉良義央を高師直、浅野長矩を塩冶判官に置き換え、師直が判官の妻に横恋慕したことを事件の発端としている。ちなみに史実では、塩冶高貞は暦応4年播磨国影山(神東郡蔭山荘)にて自害[4]、師直はその十年後、上杉能憲に摂津国武庫川で討たれている[5]

本作の師直は「人を見下す権柄眼(まなこ)」、義貞の兜の事についてもそれが将軍尊氏の「厳命」でありながら、「御旗下の大小名清和源氏はいくらも有る。奉納の義然るべからず」と口を挟んで憚らない。自らが仕える将軍家に対してでさえこうなのだから、自分より地位の低い者等に対しても傲慢な態度に出るのは当然である。それが若輩ながらもれっきとした大名である若狭之助を口汚く罵ったり、ほんらい人妻であるはずのかほよ御前に横恋慕してしつこく言い寄るという所業に表れている。そしてこの師直の傲慢さが悲劇を生み、それに多くの人が巻き込まれることになるのである。

時代物の義太夫浄瑠璃の最初の段を「大序」(だいじょ)という。「大序」はたいていが内裏や寺社、または将軍の御所などといった重々しい場面で、そこに天皇や公卿、将軍や大名などの高位の人物が集まって話が始まる。人形浄瑠璃は古くは通しの上演が原則だったので、各作品が再演されるときには「大序」も上演されていたが、現行の文楽にまで絶えず伝承されてきたのは『仮名手本忠臣蔵』と、ほかには『菅原伝授手習鑑』の「大序」があるくらいである。歌舞伎の義太夫狂言においても、人形浄瑠璃の作品が歌舞伎に移された当初は「大序」が上演されもしたが、そのほとんどが早くに廃滅した。歌舞伎の演目として絶えることなく伝承され、今日にまで上演され続けてきた「大序」は、『仮名手本忠臣蔵』が唯一といってよいものである。

歌舞伎では必ず幕を開ける前に、「口上人形」と呼ばれる操り人形による「役人替名」(やくにんかえな)、すなわち配役を「相勤めまする役人替名…塩冶判官高定、○○○(演じる役者の名)…」と読み上げることがある。これはもと歌舞伎の芝居では、芝居の最初の幕が開く前に下級の役者が幕の前に出て、姿で「役人替名」を読み上げることがあり、それを人形が演じる形で残したもので、この「役人替名」の読み上げが見られるのも現在では『仮名手本忠臣蔵』の大序だけである。天王立という鳴物で幕を開ける荘重な場面であり、東西声で幕を開けた後も、登場人物たちは人形身と称して下を向いて瞳を開かず、演技をしないで、竹本に役名を呼ばれてはじめて「人形に魂が入ったように」顔を上げ、役を勤めはじめる。

六代目尾上梅幸はかほよ御前について、「この役は品格と色気で、品が七分に色気が三分というところでしょう。色気があるので、師直とのあんな事件(横恋慕されること)が出来上がる」と述べている。


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