天平10年(738年)諸国の国郡図を進上させる。天平11年(739年)末頃から天平12年(740年)初めの頃に郷里制を郷制に改める。天平時代に聖武天皇が政権に就いた時期には、平城京では疫病が蔓延し、社会不安が広がっていた。これを払拭すべく、光明皇后の意見も有って、天平13年(741年)令制国には国分寺(国分僧寺)・国分尼寺の建立の詔を出した。
平安時代の延喜式には、各令制国の郡の個数が記載された。また、以下のように国力による分類(大国・上国・中国・下国)と都からの距離による分類(畿内・近国・中国・遠国)が行われた。
畿内近国中国遠国
大国大和国、河内国伊勢国、近江国、播磨国越前国武蔵国、上総国、下総国、常陸国、上野国、陸奥国、肥後国
上国山城国、摂津国尾張国、三河国、美濃国、備前国、美作国、但馬国、因幡国、丹波国、紀伊国遠江国、駿河国、甲斐国、信濃国、加賀国、越中国、伯耆国、出雲国、備中国、備後国、阿波国、讃岐国相模国、下野国、出羽国、越後国、安芸国、周防国、伊予国、筑前国、筑後国、豊前国、豊後国、肥前国
中国若狭国、丹後国能登国安房国、佐渡国、長門国、石見国、土佐国、日向国、大隅国、薩摩国
下国和泉国伊賀国、志摩国、淡路国伊豆国、飛騨国壱岐国、対馬国、隠岐国
概ね国力分類が上位の国ほど農業生産力が大きい。ただし上国の尾張国・美濃国・信濃国などは実際には大国並みの農業生産力を有した。
中近世江戸時代末期の日本地図(1855年、アメリカ合衆国発行):陸奥国および出羽国の分割、北海道11か国の設置、琉球処分がなされる前の状況
律令制が事実上崩壊してからも、鎌倉時代には依然として各国に国衙が置かれ、国を支配していた。南北朝時代に戦乱が全国に及ぶと、守護の力が増大し、国衙の機構を吸収するに至った。それに伴い室町時代には守護による領国支配が進行した。こうして軍事警察権のみならず国の行政権も手にした守護を守護大名、彼らの国支配体制を守護領国制と呼ぶ。
戦国時代になると、律令時代からの行政体としての国はこれを構成した荘園や公領の実態の希薄化に伴い消滅した。国司は、完全に名目だけの官職となり、惣村や国人一揆といった在地の自治的結合を権力基盤として守護大名や守護代、有力な国人などから成長した戦国大名が領国支配の正当性を主張するために欲するようになる。安土桃山時代と江戸時代には、地方統治は大小多様の大名と、大名に準ずる領主、江戸幕府の直轄領に分割された。領有が細分化した地方に特別な機関を置く場合を除いて、国を単位とする行政体はなかった。ただし国司を任じていたことから、名目のみ行政区分としての令制国は存在していた。また令制国全土あるいはそれに匹敵する大きさの領地をもつ大名を示す国主という家格が存在した。住所の表示には令制国が用いられ、欠かせない地理区分だった。 この節には複数の問題があります。改善
近現代.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}
出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2017年2月)
独自研究が含まれているおそれがあります。(2017年2月)
明治初期の令制国の配置図
江戸時代までとの大きな違いは国司を廃止したことであり、国司廃止によって名実共に行政的な地理区分ではなくなった。
1869年1月19日(明治元年12月7日)、戊辰戦争(東北戦争)に敗戦した奥羽越列藩同盟諸藩に対する処分が行われ、明治政府は陸奥(むつ)国を磐城国・岩代国・陸前国・陸中国・陸奥(りくおう)国の5国に、出羽国を羽前国・羽後国の2国に分割した。
戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年9月20日(明治2年8月15日)、和人地および蝦夷地(北州)に北海道11か国を新たに設け、これにより五畿七道から五畿八道とした[5]。
1871年(明治4年)の廃藩置県後、清の冊封を受けながら、実際には薩摩藩のコントロール下に置かれていた琉球王国は、いわゆる琉球処分の過程で、1872年(明治5年)に琉球藩とされ、1879年(明治12年)には沖縄県とされたが、その後も地名としては引き続き琉球国と呼ばれた。