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やノートページでの議論にご協力ください。江戸時代までとの大きな違いは国司を廃止したことであり、国司廃止によって名実共に行政的な地理区分ではなくなった。
1869年1月19日(明治元年12月7日)、戊辰戦争(東北戦争)に敗戦した奥羽越列藩同盟諸藩に対する処分が行われ、明治政府は陸奥(むつ)国を磐城国・岩代国・陸前国・陸中国・陸奥(りくおう)国の5国に、出羽国を羽前国・羽後国の2国に分割した。
戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年9月20日(明治2年8月15日)、和人地および蝦夷地(北州)に北海道11か国を新たに設け、これにより五畿七道から五畿八道とした[5]。
1871年(明治4年)の廃藩置県後、清の冊封を受けながら、実際には薩摩藩のコントロール下に置かれていた琉球王国は、いわゆる琉球処分の過程で、1872年(明治5年)に琉球藩とされ、1879年(明治12年)には沖縄県とされたが、その後も地名としては引き続き琉球国と呼ばれた。ただし、この「琉球国」は便宜上の用法であり、令制国の1つではなく、五畿八道にも含まれない。
1902年(明治35年)までは令制国の範囲改定が行われたりしていたことから[6]、少なくともこの年までは制度上も用いられていた。しかし、台湾・朝鮮などの外地には令制国は設定されなかった。また、いったん失ったのち日露戦争後南半分が日本領に復帰した樺太は大正期制定の共通法1条2項では内地と規定され、1943年(昭和18年)法令上の特例が廃止され名実ともに完全な内地となったものの、同様に新たな令制国は設定されなかった。
法令による廃止はされていないが、とりわけ戸籍や郵便などの地名表記から外されたことにより急速に廃れ、反対に府県は急速に定着した。現代では、同じ地名を呼び分けるときや(摂津本山駅←→長門本山駅など。鉄道では複数の県を結ぶ路線名に「小倉(豊前)と宮崎(日向)を結ぶ『日豊本線』」のように令制国名を用いることもある)、アイデンティティや愛着から積極的に自称する場合(長野県←→信州など)、地域名(泉州、筑豊など)、地域ブランド名など(讃岐うどん、但馬牛、薩摩焼など)に旧国名が利用されている。また、国の法令においても、北海道に存する同一の名称の郡を区別するため、「下級裁判所の設立及び管轄区域に関する法律」(昭和22年法律第63号)や「法務局及び地方法務局の支局及び出張所設置規則」(平成13年法務省令第12号)は、令制国を使用している[注釈 4]。大相撲では、番付の出身地表記を昭和22年(1947年)11月場所まで令制国名で表記していた。検定教科書である社会科の地図帳は検定を受けるには令制国を記載する必要があるため令制国が記載されているが、千島国を記載していないものがある。また、地図帳での令制国表示は、実質的に歴史教材としての意味合いでしかない。
前述の通り1902年以降令制国の範囲改定が行われていないが、都道府県は境界線の変更が行われているため範囲の差が広がりつつある(越境合併を参照)。 1999年から2006年にかけて大規模に行われた市町村合併(いわゆる平成の大合併)において、新たに旧国名を冠した新設自治体が数多く誕生した。 しかしその内訳を見ると、名前通り元令制国の範囲全体もしくは大半を占めている自治体や令制国時代に国府が置かれていた自治体、国名の発祥の地を包括する自治体ばかりではなく(厳密に全体を占めているのは一島一自治体となった佐渡市・壱岐市・対馬市のみ)、上記のいずれにも当てはまらないにも関わらず、命名に際し対立を避けるために「借用」した自治体も少なくない。例として、2004年に静岡県の田方郡4町の合併で誕生した伊豆市は旧伊豆国北部の一部範囲に過ぎず、国府が置かれていた訳でもない(伊豆国府は現在の三島市にあったとされる)、いわゆる広域地名である。元々伊豆半島南部には東伊豆町・西伊豆町・南伊豆町が存在しており、さらに2005年には伊豆の国市が誕生したため「伊豆」を冠する自治体が5つ存在する結果となった。 山梨県では甲斐国にちなむ甲斐市と甲州市が誕生し、甲斐国府からその名が付いた甲府市(平成の大合併以前から存在)も相まって似た地名が乱立してしまっている。 令制国は、奈良時代までと明治時代に大きな改廃がなされたが、その間の平安時代から江戸時代までの長期にわたって変更がなかった[注釈 5]。その数は68であるが、66とされることも多かった。この場合、対馬・壱岐が「嶋」として外れる。 例えば『平家物語』において平家の栄華ぶりを表す下りでは「日本秋津島は、纔(わず)かに六十六箇国、平家知行の国、卅(三十)余箇国、既に半国にこえたり」とされている。また、11か国を守護領国とした山名氏は、全国の6分の1の国を領したという意味で「六分一殿」と呼ばれた。「全国一宮一覧」など全ての国を列挙するような場合には、実際の国の数と合わないので、備前・備中・備後をまとめて吉備とする(ただし、備前から分かれた美作はそのまま)など無理に2国減らして66にすることも行われた。「六十余州」と表現することもあった。 明治初期に行われた分割や新設に伴い、全国の令制国の数は84となった。 中世にそれまで美濃国恵那郡に属していた「木曾」が信濃国筑摩郡に移されたことが知られているが、国境の変更時期については平安時代から戦国時代まで諸説ある。なお、現在の木曽郡は、昭和後期に西筑摩郡(明治期に東西に分割)が改称したものである。 安土桃山時代・江戸初期に河川の流路変更(瀬替え・改修を含む)に合わせて国境の変更が行われた。
地名としての再使用
令制国の数
国境の変更江戸時代以前の利根川、荒川、渡良瀬川水系。
尾張国葉栗郡のうちの北部が美濃国へ編入され羽栗郡が発足した(木曽川の流路変更に合わせた)。
下総国葛飾郡のうち、太日川(渡良瀬川の下流でほぼ南北中心線を南流し東京湾へ注いだ)より西側の地域(葛西)を武蔵国へ編入した(これをもって武蔵国葛飾郡が発足)。