仙台城
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大手門、脇櫓、虎ノ門を除くほとんどの建物が焼失。


1904年(明治37年)

本丸の跡地に招魂社建立[2]。現在の宮城縣護國神社。


1920年大正9年)

大手門から本丸への途中にある中門(寅門)を取り壊す[2]。門は現知事公館の正門に移築。


1925年(大正14年)

仙台市が青葉山自然公園を開園[2]


1931年昭和6年)

大手門と脇櫓(隅櫓)が国宝指定[2]


1935年(昭和10年)

5月:政宗没後300年を記念して「伊達政宗騎馬像」が本丸に建立[2]


1943年(昭和18年)

政宗騎馬像が金属類回収令により撤去された。全て熔解されていたはずだったが、1945年(昭和20年)11月、郷土史家が塩竃市の金属集積所にて発見。翌年9月史家が自費で購入し青葉神社へ奉納。


1961年(昭和36年)

仙台市博物館が三の丸にて開館するにあたり像が青葉神社から寄贈される。以後、胸像として1986年(昭和41年)から2023年(令和5年)4月まで仙台市博物館中庭に設置されていた(2023年4月に仙臺緑彩館に移転)[4]

太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)7月10日未明、アメリカ軍による仙台空襲の際、米軍のB29により投下された焼夷弾により、大手門、脇櫓(隅櫓)(当時国宝)、衛兵所に使用中の二の丸表舞台楽屋などが全て焼失し、護国神社も焼失した。これにより、江戸時代から伝わる建物は三の丸の巽門(たつみもん)のみとなった(戦後、巽門跡の発掘時に礎石附近から焼けた土が見つかっており、大手門と同様、この日の戦災で焼失したという説もある)。
現代東日本大震災で損傷を受けた脇櫓(手前)と城壁(左奥)

戦後、二の丸跡地にアメリカ陸軍が進駐(キャンプセンダイ)[2]。トラックの通行を可能にするため、三の丸巽門が破却されたことにより(※戦災で消失説もあり)仙台城跡にあった江戸期の建築遺構はすべて失なわれた。アメリカ軍は1957年(昭和32年)にキャンプセンダイを返還[2]

返還された後の二の丸跡地には、東北大学が入り、東北大学川内キャンパスとなった。川内キャンパス(川内北キャンパス、川内南キャンパス)のうち、南部の文系四学部、付属図書館、付属植物園のある場所が二の丸にあたる。

1950年(昭和25年)

宮城神社(宮城縣護國神社占領期の名称)は国有地払い下げを受け、本丸一帯を所有した。仙台市は城が神社のものになることを望まず、交渉して土地の一部を管理し、一部を買い上げ。2003年(平成15年)現在、本丸の一部は仙台市のものだが、本丸の一部と西の丸はなお護国神社のものである。城を訪れる人は、表玄関である詰門があった場所に、大きな鳥居と「靖国神社公式参拝を継続させよう」などと書かれた看板を見ることになる。本丸の中心は、護国神社の拝殿と青葉城資料館、食堂などが占める。


1954年(昭和29年)

戦争中に撤去された政宗像はコンクリート平服立像として再建。


1960年(昭和35年)

三の丸跡地に仙台市博物館が開館[2]。三の丸の堀は、長沼、五色沼として残る。


1962年(昭和37年)

伊達政宗騎馬像が再建。先に建立したコンクリート製の立ち像は岩出山町(現・大崎市)の岩出山城に移設。


1978年(昭和52年)

6月12日宮城県沖地震で石垣や土塀に被害が発生[2]


2003年(平成15年)

8月27日:国の史跡に指定[1]


2005年平成17年)

青葉城本丸会館が営業時間を午後10時まで延長し、仙台城本丸から眺める仙台市都心部夜景を中心とした夜間観光に注力[5]


2006年(平成18年)

4月6日日本100名城(8番)に選定。


2008年(平成20年)

仙台・宮城デスティネーションキャンペーンを契機に、土井晩翠銅像前における「荒城の月」自動演奏を一日3回から10回(9:00-18:00まで1時間毎)に増加。仙台城本丸の伊達政宗騎馬像および石垣を日没から午後11時まで通年でライトアップ実施。これに合わせて、本丸にある有料駐車場(昼間普通車400円/時間)を18:00?翌8:00は夜間無料開放[6]


2011年(平成23年)

3月11日東北地方太平洋沖地震東日本大震災)で石垣脇櫓(隅櫓)の一部が崩壊[7]


2022年令和4年)


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