仏領インドシナ
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現在のベトナムラオスカンボジア中国広東省湛江市に相当する地域で構成されていた。

日本では仏印(ふついん)の略称も用いられる[1]
領域

以下の領域から成っていた。なお、フランスは南シナ海諸島(スプラトリー諸島パラセル諸島)も範囲に含むと主張していた。
直轄植民地

コーチシナ[2](現在のベトナム南部)

(直轄都市として)ハノイハイフォンダナン[2]

カンボジア北西部3州(現在のバタンバン州シェムリアップ州バンテイメンチェイ州[2]。当初はタイ王国領)

保護国

カンボジア王国[2]

ルアンパバーン王国(現在のラオス北部)

チャンパーサック王国(現在のラオス南部)

安南保護国[2](現在のベトナム中部)

保護領

トンキン[2](現在のベトナム北部)

租借地

広州湾租借地[2](現在の中華人民共和国広東省湛江市

成立までの歴史仏領ベトナムの植民地軍狙撃隊(vi:Linh t?p)伍長。1916年

以下に各地域の成立史を記述する。
コーチシナ植民地詳細は「コーチシナ戦争(英語版)」および「コーチシナの征服(英語版)」を参照

フランス領インドシナ植民地の起源は、1858年ナポレオン3世がフランス宣教師団の保護を目的[3]として遠征軍を派遣したのに始まる。遠征軍はまず中部のダナンに上陸、次いでサイゴンに転じた[3][4]

その後アロー戦争のために一時的な大規模撤兵があったが、1861年に再度フランス艦隊はサイゴンに上陸し、コーチシナ一帯を占領した[5][6]。1862年6月5日、フランスと阮朝大南は第一次サイゴン条約を締結[4]。大南はコーチシナ東部3省(ビエンホア省(英語版)(ビエンホア周辺)・ザーディン省(現在のホーチミン周辺)・ディントゥオン省(英語版)(ミトー周辺)[4]コンソン島(グラン=コンドール島)を割譲し、またダナン(トゥーラン)の開港、布教の自由、カンボジアへの自由通行権などを認め、これがコーチシナ植民地(英語版)の始まりとなった[5]。フランスは海軍・植民地省の管轄下にコーチシナ総督を設置した。

1863年にカンボジアがフランスの保護国となったことでコーチシナ西部の3省(チャウドック省(オランダ語版)・ハティエン省(中国語版)・ヴィンロン省)はカンボジアとコーチシナ植民地の東部3省に挟まれる状態となった。1867年6月にフランスは東部3省の安全保障上の不安を解消するために西部3省を攻略[7]し、6月25日にこれを植民地として一方的に宣言した[8]。このコーチシナ6省およびグラン=コンドール島がコーチシナ植民地[7]である。
カンボジアの保護国化詳細は「フランス保護領カンボジア」および「カンボジア#保護国時代」を参照

カンボジアは、ベトナムとタイに侵略されつつあった[9](第一次泰越戦争(英語版)、第二次泰越戦争(英語版))。

1863年8月11日にフランスはタイからの保護を名目に国王ノロドムに保護国条約を結ばせて[10]、1865年4月1日にはカンボジアの保護権をタイに認めさせた[11]。その後1867年7月15日のフランス・タイ条約[12]、1884年の新条約でノロドム王は実権を完全に失い、フランスの保護国となった[11]
アンナン・トンキンの保護領化「清仏戦争」も参照

1882年にフランス軍がトンキン地方を占領し[13](トンキン戦争(英語版))、1883年の第一次フエ(ユエ)条約(アルマン条約、癸未条約)(英語版)[14]1884年の第二次フエ(ユエ)条約(パトノートル条約、甲申条約)(英語版)[14]によってベトナムを保護領化[15][16](フランス保護領トンキン(英語版)、フランス保護領アンナン)すると、大南の宗主国であるの介入を招き、清仏戦争が勃発した[14][15]フランス軍はトンキン各地で清軍と戦う一方、海軍福建台湾といった清の沿岸部を攻撃した[17]ため、清は1885年の天津条約によって大南に対する宗主権を放棄した[17]。この年の暮れ頃から、インドシナ銀行がその既得権をめぐってソシエテ・ジェネラルと争った。

1886年、順化に大南宮廷を置いたままアンナン・トンキンはフランスの保護領[14]とされ、フランス外務省の管轄下でポール・ベール(英語版)が理事長官に任命された[18]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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