なお、6世紀の各地の古墳などからは、仏の像らしきものが鋳出されている鏡、あるいは佐波理椀や華瓶などの仏具と思われるような品が発掘されているが、そうした古墳では仏教祭祀をした形跡がないため、それらは貴重な供具として祭祀で用いられただけであって、「仏教」を信仰していたのではないと考えられる[3]。 4世紀後半以降、高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争を繰り返していた。6世紀前半即位した百済の聖明王(聖王)は、中国南朝梁の武帝から「持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王」に冊封され、当初新羅と結んで高句麗に対抗していた。しかし、次第に新羅の圧迫を受け、538年には都を熊津から泗?へ移すことを余儀なくされるなど、逼迫した状況にあり、新羅に対抗するため、さかんに大和朝廷に対して援軍を要求していた。百済が大和朝廷に仏教を伝えたのも、大陸の先進文化を伝えることで交流を深めること、また東方伝播の実績をもって仏教に心酔していた梁武帝の歓心を買うことなど、外交を有利にするためのツールとして利用したという側面があった[要出典]。 日本への仏教伝来の具体的な年次については、古来から有力な説として552年と538年の2説あり、現在では 538年が有力とされている[要出典]。ただ、これ以前より渡来人とともに私的な信仰として日本に入ってきており、さらにその後も何度か仏教の公的な交流はあったと見て、公伝の年次確定にさほどの意義を見出さない論者もいる。以下では、政治的公的に「公伝」が行われた年次確定の文献による考察の代表的なものを挙げるが、いずれにおいても6世紀半ばに、継体天皇没後から欽明天皇の時代に百済の聖王により伝えられた。 『日本書紀』(720年成立、以後、書紀と記す)では、欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、仏像や仏典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されている[4]。この上表文中に『金光明最勝王経』の文言が見られるが、この経文は欽明天皇期よりも大きく下った703年(長安2年)に唐の義浄によって漢訳されたものであり、後世の文飾とされ[注 1]、上表文を核とした書紀の記述の信憑性が疑われている。 伝来年が「欽明十三年」とあることについても、南都仏教の三論宗系の研究においてこの年が釈迦入滅後1501年目にあたり末法元年となることや、『大集経』による500年ごとの区切りにおける像法第二時(多造塔寺堅固)元年にあたることなどが重視されたとする説があり、これも後世の作為を疑わせる論拠としている[誰によって?]。 また、当時仏教の布教に熱心であった梁の武帝は、太清2年(548年)の侯景の乱により台城に幽閉され、翌太清3年(549年)に死去していたため、仏教伝達による百済の対梁外交上の意義が失われることからも、『日本書紀』の552年説は難があるとされる[誰によって?]。 しかしながら上表文の存在そのものは、十七条憲法や大化改新詔と同様、内容や影響から書紀やその後の律令の成立の直前に作為されたとは考えにくい[5]とされ、上表文そのものはあったとする見方がある。
仏教公伝と当時の国際環境
公伝年代をめぐる諸説奈良県桜井市にある仏教公伝の碑
552年(壬申)説
538年(戊午)説』(724年)[7][8]には、欽明天皇御代の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとある。