仏教アナキズムとは、アナキズムの理念を仏教(とりわけ禅)の教えと関連させた概念である。 上座部仏教においては、次の3つの考えが「三相(パーリ語:tilakkha?a)」と呼ばれ、仏教の特質とされている。 したがって輪廻に「完璧な状態」などはあり得ず、人間と世界が絶えず変化してゆくのと同様に、すべての人工物は非永久的で不完全である。それだけでなく、物質的な富も権力も永続的な幸福には決して繋がらず、目先だけの満足感は負の輪廻を再生産するに過ぎない。確かに個人の自由はアナキズムの崇高な理想であるが、「我」というものが本質的に外界と不可分である以上、結局はそれも普遍的な人間性を阻害することになるのである。 仏教アナキストは、国家は権力への、資本主義は物質的な富への欲望を煽り立てるための制度であり、この2つが圧迫と苦痛を生み出していると主張する。仏教アナキズムの観点からすれば、他者を支配しようとすることはその相手を苦しめることにしかならず、そして結局は支配しようとした自分自身も苦しむことになるという。蓄財などといった物質的な富への執着も、資本主義者とその仕事相手のために苦痛に苛まれるのと同様である。また、個々人が物質を消費することは不必要であり破壊的な行為でさえあると見なす点において、仏教は資本主義と根本的に対立する。「en:Kalama Sutta
三相にみるアナキズム
苦(du?kha) - 精神と肉体が逼迫されていること。
無常(anicca) - この世のあらゆるものは常に変化し続けるということ。
無我(anatt?) - 「我」ではない、すなわち、「私のものではない、私ではない、私の本質ではない」ということ。
仏教徒にとって、慈悲とは根本的な無私の表れである。すべてではないにせよ、大部分の政治団体は仏教の基礎である八正道と対立する傾向にある。だが、人間への思いやりは仏教の実践者にとってはおおむね追い風となる。よって、アナキズムの柔軟なイデオロギーは仏教徒にとっては受け入れやすいものとみられている。仏教とアナキズムを結び付けたと考えられる人物には、内山愚童、ロバート・ベイカー・エイトケン、ハル・ダヤル、ジョン・ケージ、アレン・ギンズバーグ、ダイアン・ディ・プリマ(英語版)、ケリー・ウェンデル・ソーンリー(英語版)、そして状況主義者のケン・ナッブなどが挙げられる。アナキストのピョートル・クロポトキンは原始的な仏教徒のコミュニティを相互扶助の原則が具現化されたものと見なし[1]、マシュー・ターナーは20世紀初頭の日本ではアナキズム運動にかかわった仏教の僧侶もいたと指摘した。 臨済宗の開祖である栄西の著作「興禅護国論」には、一般的なアナキストであれば誰もが否定するはずの見解が記されている。この書は禅宗自体にはほとんど言及していないため、「なすがまま」「学者戦士」などといったアナキズムのあり方を妨げるものではないにしろ、むしろ日本の伝統的な軍事主義に根差した文学的、心理学的な価値観を広めるのに利用された。のちに日本の一部のアナキストはこの軍事主義の影響から全体主義者となった[2]。 インドのアナキストであるハル・ダヤル
その他の解釈
アナキズムとヒンドゥー原理主義
仏教とヒンドゥー教の関係については現在も論争がある。その一例としては、両者における「アーリア」という言葉の意味の相違についてのものがある[4]。「ヒンドゥー教における釈迦」も参照ゲーリー・スナイダー(2007年) 1950年代のカリフォルニアでは、ビートニクの出現によって仏教アナキズムは新たな局面を迎えていた。ゲーリー・スナイダーやダイアン・ディ・プリマ
禅ヒッピー