仏印進駐
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第21軍参謀長土橋勇逸少将がハノイに派遣され、フランス領インドシナ総督ジョルジュ・カトルー(英語版)との会談が行われ、日本は国境封鎖と、南寧の日本軍への補給を求めたが、インドシナ政府は拒否した[5]。以降、日本陸軍は?越鉄道に対して繰り返し空爆を行った。1940年2月1日の空爆では40人が死亡し、その中にはフランス市民が5人含まれていた[6]。?介石政権はフランスにを派遣することを提案したが、フランス領インドシナ政府は拒否している[6]
北部仏印進駐

北部仏印進駐
戦争:
第二次世界大戦
年月日:1940年9月22日-26日
場所: フランス領インドシナ連邦
結果:日本がフランス領インドシナ北部を制圧し援蒋ルートを遮断
交戦勢力
大日本帝国 フランス国

フランス領インドシナ連邦

指導者・指揮官
中村明人中将
西村琢磨少将ジャン・ドクー中将
戦力
第5師団
印度支那派遣軍
第二次世界大戦
リスト

ヨーロッパ方面
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太平洋・アジア東部方面
仏印進駐 - 太平洋戦域 - 中国戦域 - ソ連対日参戦
その他の地域
ガボン戦 - インド洋 - イラン進駐 - タイ・仏印 - マダガスカル戦 - エクアドル・ペルー戦争 - アメリカ本土 - 1943年アルゼンチンクーデター - イリ事変



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日本軍の仏印進駐について協議した富永恭次少将(右)デクー総督(中央)西原一策少将(左)

1940年5月のドイツ軍のフランス侵攻によりフランスが劣勢になると、日本軍内ではフランス領インドシナに対する対応が検討され始めた。6月15日には有田八郎外相が陸海軍大臣にフランスに対する要求案を提出し、17日には可決された[7]。同日、フランス領インドシナ政府は武器弾薬・燃料・トラックの輸出を禁止する措置を行う旨を日本側に通告したが、日本側の対応はかえって激しいものとなった[7]。6月18日、フランス領インドシナ政府に対する要求案が決定された[7]

6月19日、日本側はフランス領インドシナ政府に対し、仏印ルートの閉鎖について24時間以内に回答するよう要求した[8]。カトルー総督は、シャルル・アルセーヌ=アンリ(フランス語版)駐日フランス大使の助言を受け、本国政府に請訓せずに独断で仏印ルートの閉鎖と、日本側の軍事顧問団(西原機関、団長西原一策少将)の受け入れを行った[3]。カトルーの受諾は時間稼ぎの目的があり、アメリカから武器を購入しようとした上で、イギリスの外相ハリファックス伯に軍事的援助を要請しているが、拒絶されている[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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