仏典
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むしろ近年の学界では、古代インドの仏教を学術的に考察するうえで、パーリ仏典の歴史資料としての価値は限られている、という認識が広まりつつある[3]

漢訳仏典は、4世紀の釈道安が整理を行って以来、文献の成立年代や伝承の来歴がはっきりしている。その意味では、学術研究の歴史資料としてはむしろパーリ仏典より価値がある、とする見解もある[3]。漢訳仏典の大半はサンスクリット原典から訳出されたものだが、サンスクリット原典が残っていないことが多いうえ、現存するサンスクリット原典の写本も漢訳より古い時代のものは少ない。その理由としては、

中国、インドいずれでも王朝の交替や宗教、思想の変遷により新たな支配層にとって不都合な記述のある原典が言論・思想統制で意図的に破棄された。

中国では漢訳仏典は写本により流布したが、サンスクリット原典は漢民族社会では需要がないため保存されなかった。

写本によらず、訳経僧が暗諳していた聖典を漢訳したため、元から原本が存在しなかったケースの存在。

が考えられる。いずれにしても梵本は、中国では用いられなかった。
上座部仏教

釈迦の入滅後、教えを正しく伝えるために、弟子たちは聖典編集の集会(結集)を開き、仏典整理を開始した[2]。ところが、仏滅後100-200年ころには教団は多くの部派に分裂し、それぞれの部派が各自の三蔵を伝持するようになった。それらはインドの各地の言語によっていたと思われる。

部派仏教三蔵(現存するもの)[4]上座部大寺派化地部法蔵部説一切有部大衆部
(Dharma)長部
中部
相応部
増支部-長阿含経長阿含経
中阿含経
雑阿含経-
(Vinaya)パーリ律五分律四分律十誦律
根本説一切有部律摩訶僧祇律

完全な形で現存するのは、スリランカに伝えられた上座部系のパーリ語仏典のみで、現在、スリランカ、タイ、ミャンマーなど東南アジアの仏教国で広く用いられている。その内容は次の通りである。
律蔵:経分別(戒律の本文解説)、犍度(けんど、教団の制度規定)、付録。

経蔵:長部、中部、相応部、増支部、小部の5部。前4部は漢訳『阿含経』に相当する。

論蔵:法集論、分別論、界論、人施設論、論事、双論、発趣論の7部。

これらは紀元前2世紀-紀元前1世紀ころまでに徐々に形成されたもので、紀元前1世紀ころにスリランカに伝えられたといわれ、以後、多くの蔵外の注釈書、綱要書、史書等が作られた。1881年ロンドンにパーリ聖典協会 (Pāli Text Society) が設立されて原典の校訂出版等がなされ、日本では若干の蔵外文献も含めて『南伝大蔵経』65巻(1935年-1941年)に完訳されている。

注意が必要なのは、パーリ仏典が必ずしも古い形を残しているとは限らない点である。漢訳の『阿含経』には上座部に伝わったより古い形態のものがあったり、あきらかにサンスクリット語からの漢訳と考えられるものがある。その意味で、パーリ仏典が原初の形態を伝えていると考えることは、間違いではないが正確な表現ではない。
大乗仏教
漢訳仏典

中国における仏典の漢訳事業は2世紀後半から始まり、11世紀末までほぼ間断なく継続された。漢訳事業の進行に伴い、訳経の収集や分類、仏典の真偽の判別が必要となり、4世紀末には釈道安によって最初の経録である『綜理衆経目録』(亡佚)が、6世紀初めには僧祐によって『出三蔵記集』が作成された。これらの衆経ないし三蔵を、北朝北魏で「一切経」と呼び、南朝で「大蔵経」と呼んだといい、初に及んで両者の名称が確立し、写経の書式も1行17字前後と定着した。

隋・唐時代にも道宣の『大唐内典録』等の多くの経録が編纂されたが、後代に影響を与えたのは730年(開元18)に完成した智昇撰『開元釈教録』20巻である。ここでは、南北朝以来の仏典分類法を踏襲して大乗の三蔵と小乗の三蔵および聖賢集伝とに三大別し、そのうち大乗仏典を『般若』、『宝積』、『大集』、『華厳』、『涅槃』の五大部としたうえで、当時実在しており、大蔵経に編入すべき仏典の総数を1076部5048巻と決定した。ここに収載された5048巻の経律論は、北宋以後の印刷大蔵経(一切経)の基準となった。

漢訳仏典は、古写本も豊富に残っている。日本国内に限っても、奈良時代に書写された仏教経典が一千数百巻、その奈良時代のものから転写したと想定される平安時代から鎌倉時代の古写経が一万巻以上も現存しており、これらの古写経は敦煌の仏教文献群に比肩する重要な資料群と評価されている[5]
大蔵経

テキストの形態は、初期は巻物状の写本(巻子本)であったが、北宋の『開宝蔵』以降は木版印刷の版木、刊本の形となった。近年では電子データ化された大蔵経も利用できるようになっている。収録される仏典は、三蔵(経律論)におさまる漢訳文献と、中国側の注釈書、独立作品、僧の伝記、目録などの著作群からなる。[6]
中国
北宋版系

最初の大蔵経刊本は、北宋太祖太宗の治世、971年 - 977年開宝4 - 太平興国2)にかけて蜀(四川省)で版木が彫られ、983年(太平興国8)に、都の開封に建てられた「印経院」で印刷された。これは古くは『蜀版大蔵経』と呼ばれていたが、現在では開版の年号をとって『開宝蔵』、あるいは太祖の詔勅に基づいて開版されたため『勅版』と呼ぶのが一般的である。『開元釈教録』によって編纂される。当時の「蜀大字本」の規格の文字により、毎行14字の巻子本形式であった。これは宋朝の功徳事業で、西夏高麗、日本などの近隣諸国に贈与された。


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