今田智憲
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実務は江守と今田が担当し"映画五社体制へ、外の血を入れた旧映画界にクサビを打ち込む動きとして注目を浴びた[18]
東映動画・東映ビデオ社長

1971年、大川の急逝で東映の二代目社長に盟友岡田が就任したため、1973年8月、東映ビデオ社長として東映に復帰[1][29]。翌1974年8月、東映動画代表取締役社長兼タバック代表取締役社長就任[1][2][4]。以降、東映ビデオ社長を16年間兼任しながら東映動画の事業多角化と頭脳集約型企業を標榜し、1993年の会長就任まで歴代最長の20年間社長を務め、労組問題に揺れた東映動画を立て直し、営業部門を商品営業部、版権営業部、事業部に分割させ強化し、アニメデジタル化、アニメ海外輸出、キャラクター・ビジネスの可能性を模索した[4][30][31]。これらは同社がブーム期以降に飛躍発展する礎となった[31]。東映アニメーション、及び日本アニメのデジタル化は労組問題での苦しい教訓を活かし、今田が同社の再建策として将来を見据えてコンピュータの導入を指示したのがきっかけ[32]。社内にプロジェクトチームを発足させ情報蒐集と国内大手家電メーカーと連携して研究開発に取り組んだが、1980年代は初期費用、ランニングコスト天文学的な数字にのぼり、結局1991年に開発プロジェクトは中断した[32]。しかしその直後からパソコンの性能が飛躍的に向上し価格もどんどん下がり、1992年の『北斗の拳』のゲーム用データ作成を手始めに、一部実験的に試用を始め、1997年ゲゲゲの鬼太郎 第4シリーズ』4月放映分からデジタル制作に完全に切り替えた[32]。これが日本アニメのデジタル化第一作である[32]

東映動画は今田が社長に就任してようやく海外にも眼を向けていこうという方針になった[30]。今田は東映動画創業時から、アニメは日本の映像産業が世界に輸出し得る唯一の商品という考えを持っていた[9]。それまで東映が行っていた海外販売を1975年から新設した版権営業部にやらせ東アジア東南アジアを手始めに欧州アメリカ等、世界各国のテレビ・映画の見本市に毎年出展。自ら世界各地の映画祭配給会社を訪ね、日本アニメの輸出促進を働きかけた[9]。フィルム輸出と海外版権の販路拡張を推し進め、日本アニメ海外進出の推進役として多大な功績を残した[33]。1974年10月「仮面ライダー」など実写作品の著作権管理を東映に移行させ、アニメ作品の著作権を東映アニメーションで専門に管理。「キャンディ・キャンディ」や「UFOロボ グレンダイザー」は輸出した世界各国で熱い支持を受け営業活動の大きな起爆剤となった。沖縄海洋博・アクアポリス、マリノラマ用映像制作。東映動画とタバック内に東映オーディオ・タレント・スクールを設置し、声優養成講座開講。1975年から「世界名作童話アニメ」製作を開始、白鳥の湖等、断続的に8年間全20巻を製作。1976年生産者グループ(TCPG)を発足させ、商品営業部の企画・生産・販売ラインを確立。1977年4月発足した日本商品化権協会理事長に就任。1977年「魔女っ子メグちゃん」等、中南米向け販売を開始。同年東映アニメーション・ファンクラブ設立。1978年、劇場作品として初の受託作品となった『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』は前例のない大ヒットを記録し、アニメブームの中核へ躍り出た。同年「アニメーター養成講座」を開設[9]。1979年、テレビ版で高い評価を得たアニメ『銀河鉄道999』の劇場版を初めて自主製作し、同年邦画配収成績1位を記録。これは『宇宙海賊キャプテンハーロック』の第1話を見て感激した今田が、東映動画始まって以来の社外起用としてりんたろうを監督に抜擢したもの[34]。この後1982年まで毎年、松本零士作品を公開しブームの中核を担う。

1975年、事業部がグレートマジンガー巨大ロボットショーの実演催事用アトラクションの製作から、集客・販売と番組宣伝を兼ねたキャラクターショーを全国遊園地等で展開、これはその後拡大・発展した。事業部はその他、遊園地やレジャー施設、テーマパーク等のアトラクションの製作や施設設計施工アイスショー野球場のスコアボード映像製作、歌手コンサートの製作、催事の業務提携、「大恐竜展」「大エジプト展」などのイベントも手掛けている。1977年、日本商品化権協会設立で初代理事長[35]。1978年、商品営業部が販売強化のため、メーカーとの共同販売プロジェクト開始。1980年、版権営業部国際部新設。1981年にはオリジナル・キャラクターの開発・商品化、輸入ファンシー商品販売に乗り出す。

1980年から週刊少年ジャンプで連載の始まった「Dr.スランプ」のアニメ化を指示し[36][37]、1981年にテレビ放映を開始した「Dr.スランプ アラレちゃん」は、劇場版にも観客が殺到する大ブームを生み、1983年から放映した「キン肉マン」はキャラクター商品も子供たちの間で大流行。1984年から放映の「北斗の拳」も大ヒットした。その他、在任中放送または制作した作品に「一休さん」、「聖闘士星矢」、「美少女戦士セーラームーン」、「スラムダンク」などの大ヒット作がある。1986年にはフィリピンに同社初の海外製作拠点を設立し1992年EEI-TOEIとして東南アジアにおける海外製作拠点とした。また同社初の自己資産の購入他、前述のようにアニメデジタル化を実現させた。在任中東映アニメーション、過去最大の経営発展を成し遂げ1993年同社社長を退任し会長に就任[1]1994年まで会長職を務め、1994年から相談役[1]、2000年から特別顧問となった[1]。この間1976年から1991年まで日本動画連盟(現日本動画協会)理事、1977年から1995年まで日本商品化権協会理事長、1995年から2006年まで日本商品化権協会特別顧問。

デジタルコンテンツグランプリ2001人物表彰の部特別賞受賞。

肺炎のため2006年6月23日に死去した。享年82。東京プリンスホテルで東映アニメーション主催のお別れ会が行われた[1]
作品

☆但し書きのないものは製作・製作総指揮

河内遊侠伝(1967年) ※企画

陸軍諜報33(1968年) ※企画

グレートマジンガー対ゲッターロボ(1975年)

これがUFOだ!空飛ぶ円盤(1975年)

長靴をはいた猫 80日間世界一周(1976年)


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