今東光
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「文党」に集まっていた社会運動家の影響でプロレタリア文学にも関心を強め、新感覚派の片岡鉄兵、鈴木彦次郎らとともに「左傾」を声明し、1929年に日本プロレタリア作家同盟に参加、作家同盟の機関誌『戦旗』に戯曲「クロンスタットの春」、書き下し長篇として南部藩の百姓一揆を題材にした『奥州流血録』などを発表。プロレタリア大衆文学の先駆的作品とされる[2](ただし、この著作は生出仁によるものであったという説が有力[3])。映画の関係から、日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)の初代委員長や、映画従業員組合の委員長もつとめていた[4]。しかし、妻フミ子の嫉妬と極端な独占欲により文学関係者との交際を妨害されたことや、左翼運動の中での軋轢が決定打となって次第に文壇に距離を置く。この時期、妻の実家があった茨城県結城郡大花羽村、鬼怒川の辺に書院を建て独居していたが、同地の古刹、天台宗 正覚山蓮華院安楽寺(現茨城県常総市大輪)住職、弓削俊澄僧正の知遇を得て、非常勤私設秘書を買って出た。
出家

1930年10月1日、金龍山浅草寺伝法院で大森亮順大僧正を戒師として出家得度、天台法師となり「東晃」と号した[5]。「戒光」とも号した。比叡山麓坂本、延暦寺の子院、戒蔵院に籠り、木下寂善僧正のもと三ヶ年の修行。

1933年8月、四度加行(しどけぎょう)を履修。1934年2月、佐々木味津三の訃報に接す。3月、天台宗の僧侶養成機関、比叡山専修院(現在の叡山学院専修科)を卒え、検定試験に合格。准教師となって安楽寺に下り[注釈 4]、この間『史外史伝 祇王』『僧兵』などを纏め刊行した。阪東妻三郎を主役にトーキー「支倉常長」の製作、バチカンロケも視野にする構想を発表したりした。1936年「日本評論」に「稚児」を発表、評価の少ない中で川端康成は「東光さんは健在ですね」と日出海に語った[注釈 5]。前後して強度の心臓肥大症を患い生死を彷徨う最なか、1935年から数ヵ年を秘教義や易学の研究に勤しみ「神秘」「易学研究」に執筆をかさねた。漸くに静養の明けた1941年1月31日、権律師春聽として岐阜県郡上郡嵩田村(現、岐阜県郡上市美並町)、天台宗大日坊(古来、加賀国白山寺白山本宮〔現 白山比盗_社〕、越前国平泉寺白山神社と並び白山信仰の拠点であった、美濃国白山中宮長瀧寺=泰澄開基の末寺、長瀧一山八坊の一)の住職に任ぜられ赴くが、戦時下の宗教行政(宗教団体法)に阻まれ復興ならず、同年易学書『今氏易学史』を著し(谷崎潤一郎佐藤春夫序文)、神智学の書籍『神秘的人間像』(THEOSOPHICAL PUBLISHING HOUSE (TPH)刊 C・W・リイドビーター 原著)を訳出刊行、『易学史』は代から明代にかけての史書で日本で初めての本格的な研究書として高い評価を受け、北京大学でも紀要になったという。華北交通の顧問としてしばしば中国大陸にも赴いた。同時期、古美術関係の著述が多く、1943年秋、文藝春秋に、出家後の僧名である春聽の名で「熊野拾遺」を発表、実に凡そ20年ぶりの同誌執筆であった。御門流『擇艸』(水谷川紫山・千宗守ら同人 松田幸丸編集・擇艸舎発行)に執筆するなどした。佐渡に渡り取材した『順徳天皇』は戦時下、唯一の大著である。この時代の交友関係に、青山圭男鳥海青児・美川きよ夫妻があった。1942年水の江瀧子が組織した「劇団たんぽぽ」の命名者でもあった。

1943年11月、ようやくに小康を得たことを機に発心し、顕密両教弘通(けんみつ りょうぎょう ぐつう)の勝地、伝法灌頂の道場として発展した、関東・奥羽の天台宗中心道場、茨城県真壁郡黒子村(現筑西市)、東睿山千妙寺に上り、金剛寿院灌室にて入壇、「灌頂」を履修、天台宗伝燈の「三昧流」伝法を修めた。

戦時中は東京・穏田(渋谷区神宮前)に住み、出版書肆・文耀書院や易学の結社「天台閣」を興すなどし、下谷区根岸 (台東区)・聖恩教会(本門法華宗)長田龍省(おさだ りゅうしょう)との親交を深めた。龍省は秀れた法華行者で霊能家であり、「易学史」執筆や、東光の少年期、父武平招来による出逢い以来の、神智学等「秘教義」研鑽時代の東光坊春聽法師の盟友的存在であった。しばしば、龍省の巫呪、口述するW古代秘史Wをノートに書き留め続けていたという(夫人談)。1945年5月25日の空襲で2万5千冊の蔵書を焼亡、新進作家として活躍した時代の交友録、諸作家や友人たちとの書簡資料、貴重な仏書、史料等も焼失した。当時北多摩郡調布町二本松にあった軍需工場、昭和鍛工会社(戦車のキャタピラ等を製造)付属青年学校の講師を務めていたことから、調布飛田給の同社宅に疎開した。同じころ、妻フミ子が離婚を申し出た。

戦後1946年秋、母綾の秘書役を務めていた千葉県印旛郡志津村(佐倉市志津)の旧家の人、蜂谷清(はちや きよ)と再婚。かつて1936年「日本評論」に発表の「稚児」を、稿を革たに1947年2月に谷崎潤一郎序文、鳥海青児装丁を得て刊行、出版元の金沢忠雄は仲間内で「カナチン」と称ばれる印刷用紙ブローカーの闇屋然であったと。この時期に特筆すべき労作として、1936年に死去した父武平の遺稿等を母とともに修訂、編纂した涅槃論の大冊「神智の門」があって(1947年8月16日、武平忌に脱稿)、上田光雄主宰の光の書房から刊行予定であったが実現を見ず、後ち二度にわたり翻刻連載が試みられた(個人雑誌「東光」1953・「歓喜世界」1983?89)。

1948年9月、富田常雄主宰「日本文庫」に2千枚の長編を構想し「悪童」を連載した。稿料は月5千円であった(夫人談)。亡父の墓処、多磨霊園武蔵國分寺跡はじめ北多摩近在を下駄一足で歩き回り、沈潜・雌伏の時代とはいえ、近藤勇新撰組に関するもの等、小品50数編が生まれた。同時期、フィリピンから復員した今日出海が、1945年11月、文部省社会教育局文化課長、同芸術課初代課長となった。敗戦の翌年、1946年に開催された「第1回芸術祭」の立案には、小泉清(洋画家:小泉八雲の三男)に呼びかけるなどし、積極参画した(本人談)。

調布は「東洋のハリウッド」とも称された映画の町で、出家前に阪東妻三郎プロダクション(阪妻プロ)顧問や、全日本映画従業員組合書記長、日本プロレタリア映画同盟委員長などを務めていた関係もあって、飛田給の草庵に多くの映画人が訪れた。時代は1946年から1948年の東宝争議の真っ只中で、東宝新東宝独立プロの関係者が出入りしていた。かつての調布・二本松の軍需工場、昭和鍛工会社跡地は、戦後、伊藤武郎による独立映画の撮影所となった[注釈 6][6]

1950年秋から一年間、春日大社四天王寺に赴き易学を講義、1951年9月、天台宗総本山延暦寺座主の直命により大阪府八尾市中野村の天台院の特命住職となり西下する。天台院は当時檀家が30数軒の貧乏寺であったが、天海大僧正の直弟子、念海和尚による再興[注釈 7]、無畏智道上人止住隠棲[注釈 8]など、歴代、高僧の隠居寺であった。西下には、齋藤石鼎(のちに義仲寺住職)、塚本龍泉(法華行者、易学家 『觀法』主幹)が同道した。保田與重郎が『春聽上人』としての西下を促した。與重郎が後に著した『現代畸人伝』に当時の消息が綴られている。同時期、河上徹太郎伊藤整らが大正期「新感覚派」作家の雄としての今東光を回想、高見順も『昭和文学盛衰史』にその文壇史的位地を特筆した。天台院主として春聽上人は1952年5月1日、東光山(紫雲山)天台院に晋山した。沼田に囲まれた河内八尾の鄙びた小庵への入山であったが、春日大社宮司・水谷川忠麿近衛文麿近衛秀麿の弟、夭折した近衛直麿の兄)、四天王寺管長・出口常順の列座、雅楽伶人による雅楽の演奏、職衆による声明という古式による入山の儀に村人は度肝を抜かれ、「オイ。ワレ。こんどの和〈おす〉さん(和尚さんの意)。エライ、ヤマコ張っとる《ペテン師》やナイケ。」などと噂し合った。摂河泉、畿内古代道を渉猟し、檀家信徒と接する衆生教化の日々の中に、河内人の気質、風土、歴史への理解を深くし、東大阪新聞社『河内史談 第参輯』1953 に「天台院小史」を執筆。「河内はバチカンのようなところだ」「歴史の宝庫だ」と、作家魂が蘇生、個人雑誌『東光』を刊行した。のちに文壇復帰のきっかけとなる「闘鶏」を取材執筆しながら、「ケチ(吝嗇)・好色・ド根性」[注釈 9]といった河内者の人間臭と、土俗色の色濃い河内地方の方言や習俗に親しんでいった。のちにエンターテイメント作家としての代表作のひとつとなる『悪名』の主人公、朝吉親分のモデルとなった、岩田浅吉との出会いもこのころであった。
文壇復帰

1953年2月、短編「役僧」が30年ぶりに『文藝春秋』に掲載され、文芸家協会編 『創作代表選集』にも収録された。『大法輪』に「天台大師」「師の御坊」、『祖国』に幕末の志士河上彦斎を描く「人斬り彦斎」を連載、「破戒無慚」「人の果て」を発表。1955年10月2日、比叡山に上山。天台宗随一の古儀、法華大会(ほっけだいえ)「広学豎義」(こうがくりゅうぎ)に臨み教学論議(僧侶の試験)を及第し阿闍梨となり、1956年1月、京都の宗教紙「中外日報」第二代目社長に就任した。

天台院を訪れた谷崎潤一郎により「闘鶏」の原稿が中央公論社に送られ、『中央公論』1957年2月号に掲載された。その前年1956年裏千家の機関誌『淡交』に1年間連載していた『お吟さま』で第36回直木賞を受賞し、一躍流行作家として文壇に復帰する。


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