今村昌平
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川島は幕末太陽傳での製作にかかる予算配分を巡って日活と対立し、結局日活を去るが、今村は日活に残り、『にっぽん昆虫記』、『赤い殺意』などの製作を行なう。今村は常に川島を意識して、地方出身で都会志向の川島に対して、東北土着の「基層心理」をベースにした作風(本人の言葉で言えば重喜劇)をこのとき確立させた。のちに今村はこの基層心理を推し進めてドキュメントタッチの作風に変化して行ったが、主人公は常に庶民であり、有名人の故事来歴的作品は一切取り上げなかった。

師匠・川島についての追悼録、『サヨナラだけが人生だ 映画監督川島雄三の生涯』では川島の生涯を実証的に取り上げ、川島がALSに侵されながらそれを一切他言せず、最後まで映画製作の現場に立っていたことを取り上げた。今村は総じて女性を肉感的に表現することを好み、多くの作品で女優のヌードシーンが登場している。

長男の天願は父・今村について、「金儲けが下手な理想主義者」と語っている。
経歴

東京府東京市大塚で耳鼻咽喉科の開業医の三男一女の三男として生まれる。父・半次郎は兵庫県加東郡東条村に生まれ、東京帝国大学医学部卒業後、京橋に耳鼻咽喉科医院を開業[24]。母は北海道小樽市の漁師の娘だった[24][25]小学校の同級生に俳優の北村和夫がいた。小学校時代から父に連れられて寄席や映画にはよく通う日々を送る。また長兄は「金曜会」という劇団に所属していたが、後にフィリピンで戦死。

1944年昭和19年)に東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中の同期には、星新一小説家)、槌田満文武蔵野大学名誉教授)、大野公男(元北海道情報大学学長)、児玉進(映画監督)、黒澤洋(元日本興業銀行会長)、星野英一東京大学名誉教授)などがいた。

徴兵を避けるため桐生高等工業学校(現・群馬大学工学部)に入学するも、終戦後直ちに退学し、早稲田大学第一文学部西洋史学科に入学。

早稲田大学では演劇部に所属し演劇活動を行っていたが、『醉いどれ天使』に感動し、演劇に見切りをつけ監督の黒澤明に付こうと思い決めた。しかし、黒澤のいた東宝はその時助監督募集をしていなかった。

1951年(昭和26年)早稲田大学第一文学部を卒業し、松竹大船撮影所に入社。欠員の出た松竹が初の助監督公募を行い2000人中8人という難関を突破しての合格だった。主に小津安二郎の助監督をつとめ、松竹大船助監督部の幹事にまでなったが、収入や仕事で不満を感じ、1954年(昭和29年)に日活に移籍する。のちに「松竹では束縛だらけだったが、日活はまったくなかったから驚いた」と松竹と日活のギャップを語っている。

1957年(昭和32年)の川島雄三監督『幕末太陽傳』や浦山桐郎監督の『キューポラのある街』の脚本も書いている。

1958年に『盗まれた欲情』で監督デビュー。同作では川島雄三との繋がりで黛敏郎が音楽を担当し、以後黛は『神々の深き欲望』まで、今村作品の音楽を担当した[26][27]

1958年の『果しなき欲望』の頃からスタッフが固定化、今村組が形成されていった[28]

1959年の『にあんちゃん』は今村の名を一般に知らしめた出世作で文部大臣賞も受賞したが、田坂具隆が日活をやめたための代役で本来やりたい企画ではなく、文部大臣賞の受賞については今村はそのような健全な映画を撮ったことを反省したという[29][30]

1961年の『豚と軍艦』は、高い評価を得る一方、予算オーバーしたことと興行成績が良くなかったためしばらく日活から干されることになった作品である[31]。また、本作の脚本を執筆中に小津安二郎と脚本家の野田高梧からこぞって「汝ら何を好んでウジ虫ばかり書く?(まともな人間を書け)」と言われて、両名に「このくそじじい!」と毒づきこれを契機に「俺は一生死ぬまでウジ虫ばかり描いてやる!」と固く決意したという。

1963年の『にっぽん昆虫記』では山形県で俳優とスタッフによる合宿でのオールロケと同時録音に挑戦し[32]、大胆なセックス描写が話題を呼び[33][34][35] 配給収入は3億5千万円と大ヒットした[36]。また、第14回ベルリン国際映画祭にも出品され、主演の左幸子銀熊賞 (女優賞)を受賞した。

『にっぽん昆虫記』の大ヒット後は、会社から却下されてお蔵入りしていた『赤い殺意』の企画を甦らせて1964年に公開。同作は今村が自分のベストと認めている作品である[33][37]。この『赤い殺意』などで監督として世間に認められる。

しかし『にっぽん昆虫記』『赤い殺意』で配役や予算、フィルム使用量で会社と衝突し、『赤い殺意』を最後に日活から独立し、1966年3月に自らが代表を務める独立プロの今村プロダクションを設立[38]。以後、ここを拠点に映画製作をした。この時期の今村は柳田国男民俗学に傾倒し、日本の古くからの農村に根付く俗信やルールをテーマとしていた[39]

2年がかりの沖縄ロケをし、初のカラー作品となる『神々の深き欲望』を1968年に発表。同作は各種映画賞を総なめにしたが、長期ロケのために2000万円の借金を抱え、資金難のため、その後の10年間は主にドキュメンタリー作品を手掛けた、この空白期もあり同作は今村の前半期の総決算と位置づけられる作品でもある[40][41]

1975年(昭和50年)、横浜放送映画専門学院(現:日本映画大学)を開校し、校長理事長を務め、三池崇史細野辰興金秀吉佐々部清本広克行李相日佐藤闘介などの映画監督、鄭義信などの脚本家、芥川賞作家の阿部和重、さらに、タレントのウッチャンナンチャン出川哲朗、俳優の長谷川初範隆大介などの人材を輩出した。

1979年に9年ぶりの劇映画となる『復讐するは我にあり』が公開。この作品の映画化をめぐっては、黒木和雄、深作欣二、藤田敏八らと映画化権取得をあらそった。同作品の成功により低迷期を脱し、映画監督として復活をとげる。今村はこの映画の主役で実在の殺人犯・榎津巌役を渥美清にオファーしていた[要出典]。

『復讐するは我にあり』のヒットにより借金を返済して松竹も利益を上げたことで10年間温めていた企画で初の時代劇となる『ええじゃないか』を1981年に松竹と共同製作して公開。3億円のオープンセットなど莫大な予算を投じたが、不入りで内容的にも今村自身が失敗作と認める結果に終わる[42]

1983年に東映との共同製作で『楢山節考』を発表。同作はカンヌ国際映画祭の最高賞(パルム・ドール)を受賞[43]


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