今市4人殺傷事件
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本事件の犯人である藤波 芳夫(ふじなみ よしお、1931年昭和6年〉5月15日 - 2006年平成18年〉12月25日)は、埼玉県北足立郡鴻巣町(現:鴻巣市)逆川に生まれた[1]。事件当時は49歳[1]本籍地は埼玉県鴻巣市逆川一丁目75番地1[5]

本事件以前の1950年(昭和25年)から1979年(昭和54年)にかけ、賭博窃盗暴行風俗営業取締法違反、恐喝覚せい剤取締法違反、傷害わいせつ文書等所持前科11犯(うち累犯前科2犯)を重ねていた[10]
事件まで

藤波は地元の高等学校[注 1]を卒業後、家業の農業を手伝ったり野菜の行商を行ったりしていたが、1974年(昭和49年)に女性A(事件当時32歳)と結婚[1][6]。その後は足利市内のパチンコ店に勤めていたが、このころになって覚醒剤に手を出すようになり、長野県埴科郡戸倉町(現:千曲市)など各地を転々としたのち、栃木県内で逮捕される。懲役刑を受け[1]、1979年2月に刑務所を出所したが、時折人形販売関係の仕事をする以外、親戚・知人からの借金や無心を重ね、無為徒食の生活を送っており[10]1980年(昭和55年)6月にAと協議離婚した[1]

離婚の原因には、藤波の嫉妬、暴力、妄想にAが耐え切れなくなったことがあった[7]。だが藤波はAを諦めきれず、よりを戻そうとしたものの、本人にも女性の親族にも反対されている。再三にわたりA方へ脅迫じみた電話をかけ、事件の年の1月には、元義兄であるN(事件当時38歳)方を訪れてもいた[1][6]
事件後

元妻のAについて藤波は事件後、「金の草履を履き乍ら探し歩いても見つからない程、私にとっては出来すぎたいい女房だったです。私の娘とは十歳違いですがとても仲良くて、家庭も商売も非常に良くいっていたようですが、ひょっとした事から覚醒剤を覚えてしまいみんなを不幸にしてしまい、気が付いたら私は死刑囚です」[11]「心から愛していた女房や子供達まで裏切り、どうしてあんな薬などに夢中になってしまいやめられなかったのだろうと、今考えても不思議で仕方ないのです」と手記に記している[12]。また、犯行時の自身の状況については「幻覚幻聴に苦しみとうとう覚醒剤が原因でこうなってしまった私が、今裁判で使用した証拠がないと言って証明出来ない事がとても残念です」としている[13]

獄中では死刑確定前の時点で、死刑廃止を主張する団体「日本死刑囚会議・麦の会」に入会している。1986年(昭和61年)1月に同会の機関紙『麦の会通信』に寄せた手記では、「生きて実のある償いをしたいからこそ、死刑廃止を訴えているのです」「長い人生には誰だって、一つや二つの間違いはあります。ただ大きいか小さいかの問題だと、私は思っております。たった一度のあやまちが殺人だったからといって、眼には眼をという裁判所のやりかたは、平和主義者の裁きではないと思います」と訴えていた[14]

1989年(平成元年)のクリスマスに洗礼を受け、キリスト教に帰依した。手記では「もし私が、主人イエスというお方と出会わなかったならば、きっと『平安』のない『死刑囚』という『敗北』の人生で終わっていたと思います」「神のファミリーの一員となり、新しい生命のもとに第一歩を踏み出したという思いです」と記している[15]
事件

1981年昭和56年)3月29日午後、Nが身を隠した元妻の居場所を教えないことに腹を立てた藤波は、殺意を持って前妻の実家を訪れた[1][16]。同日15時30分ごろ[3]、藤波は酒を飲んだ状態で、いきなり「オレだ」と上がり込んだ[1][16]。このとき、元義兄のNは春休み中の2人の息子を連れて神奈川県藤沢市にある親類の家へ行っており、Nの妻のC(当時36歳)は一人では寂しいからと、近所に住む姪のY(当時10歳)とM(当時16歳)を家へ呼んでいた[17]

藤波が来たとき、2人の少女YとMは居間でテレビを見ていた。藤波は登山ナイフ[7][16](刃体の長さ14.2 cm[3]で2人を切りつけ、Mは左胸部などを刺され重傷、Yも背中に1か月の怪我を負った。そのあと藤波は乗ってきた乗用車で同家に突っ込み、駆け付けたCと言い争いになった。そこへMの電話連絡で親類の男性K(当時56歳)とその長男(当時34歳)が駆け付けた。藤波はCとKに襲い掛かり、ナイフで2人の胸や腹などを刺して失血死させた[1]

それから藤波は車に乗り込んで逃走したが、その際に同じくMの連絡で駆け付けたYの母をはね、左足に軽い怪我を負わせている[1]

現場には「子供が刺された」と聞いて10人ほどの近所の人々が集まってきたが、その内の一人が庭の小鳥小屋の脇にあったオレンジ色の農業用ビニールシートに目を留め、その端から黒い長靴が覗いているのを発見した。めくった男性は横向きになり背中から血を流しているKを見つけ、「これはKさんだ!」と叫んだ。「近くにCさんもいるのでは?」と人々が辺りを探し始めたところ、程なくして小鳥小屋から5 mほど離れた農機具小屋の脇の青いビニールシートの下に、倒れているCを発見した[17]

連絡を受けた今市警察署は検問などを実施して藤波の行方を追った。その結果、藤波は犯行から1時間後の17時5分ごろ、現場から東北へ約6 km離れた同市塩野室の、杉ノ郷カントリークラブ近くの[6]道路を走っているところを、検問中の今市署員に発見された。当初藤波は犯行を否認していたが、19時過ぎになって認め、緊急逮捕された。この際、職務質問を受けた藤波は持っていた刃物で左手首を切り自殺を図ったが、生命に別条はなかった[1]

また栃木県警察捜査一課・今市署)は30日、藤波の車からCの指輪と真珠のネックレスが出てきたため、容疑を強盗殺人、同未遂に切り替えた[6]。他に藤波は現金700円、カメラも盗んでいた[7]
刑事裁判
第一審

藤波は事件当時の自身について「四人を殺傷したあと、頭に電波が走りわれにかえった」と主張しており、弁護側も「被告人は犯行の二日前まで覚せい剤を常用しており、犯行当時の直前に飲んだ酒とパトカーのサイレンを聞いたことから覚せい剤の再燃現象が起こり、頭がしびれたような状態だった。犯行後、われにかえったものの殺意、強盗の意思はなかった。犯行はすべて覚せい剤によるもので、覚せい剤の再燃現象がなければ事件は起きなかった」と主張していた[18]

1982年(昭和57年)2月19日10時10分より判決公判宇都宮地方裁判所(竹田央裁判長)で開かれた。判決の全文言い渡しは10時40分からあった。竹田裁判長は判決の言い渡し前に「長くなるので……」と被告人(藤波)を坐らせた上で、まず藤波の生い立ちに言及した。そして、少年のころから常に覚醒剤が付きまとい、ギャンブルや盗みなどで11回の有罪判決を受けたこと、覚醒剤の生んだ妄想から妻に浮気の疑いをかけ責め抜いたこと、離婚後は親族が二人の間を裂こうとしていると思い込み逆恨みするという犯行までの態度を、「反社会的、反倫理的」とした[19]


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