今川義元
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^ 「護国禅師三十三回忌香語写」の記述より[3][4]。ただし、今川彦五郎を義元の兄とみるか弟とみるかで見解が異なり、黒田基樹は四男説を採る[5]
^ 江戸時代の元禄頃に成立した説話集『武家雑記』によると、寺に預けられた理由について「義元は足が短く胴長の障害者であったため寺に入れられた」と記されている。しかし、武将の子が寺に入るのは、学問を身に付けるため、さらには兄弟間の家督争いを避けるためであり、珍しいことではなかった(上杉謙信も、幼少期には仏門に出されている)ため、これは義元を貶めるため、少年時代までさかのぼり、事実を歪曲したものと思われる[6]。もっとも、近年出された義元庶出説に従えば、嫡子ではないために家督相続が最初から想定されていなかったから、という説明も可能である。
^ 建仁寺262世。東常縁の子。兄に駿河・最勝院の素純がおり、その縁で駿河を訪れて雪斎とも交流があった[8]
^ 梅岳承芳(ばいがくしょうほう)とも。
^ 今川家側の史料に彦五郎の名を記したものはなく、『今川記』『今川氏系図』には彦五郎の記載はない。彦五郎に関する史料は、いずれも今川家以外の人物によって記されたものである。大永6年(1526年)に行われた今川氏親の葬儀には「今川氏親公葬記」という詳細な記録が残されているが、彦五郎が出席して記録に残されてしかるべき状況にも名はない[10]。こうした不可解な状況から、今川義元が家督継承後に記録を書き換え、彦五郎の存在を抹消したという推測さえある[10]。その後、玄広恵探の方が彦五郎よりも年長であることが確定したことをきっかけとして、氏親が死去したときに彦五郎は幼少で参列を許されなかったとする説[4]、一方で栴岳承芳(義元)は僧籍を有していたため幼少でありながら特別に参列を許されたとする説[5]が出されている。また、今川氏真が彦五郎の菩提を弔ったことを示す文書も発見されている[11]
^ ただし、親族の後見のない幼少の竹千代を岡崎城に置いて松平家を存続させるのは事実上不可能であり、義元が竹千代を人質としたのは事実上保護を加えて今川傘下の国衆として同家の存続を図ったとする見方もある[13][14]
^ 桶狭間合戦当時の最盛期の義元の領国は、駿河・遠江・三河の3カ国69万石(太閤検地)である。なお、尾張国は領国化されておらず、尾張国内に、反織田方として山口氏・服部氏などが今川に呼応する動きを見せている。日本軍参謀本部作成の日本戦史における桶狭間役の分析では、石高の低い駿河・遠江・三河が水増しされ、さらに尾張が領国に組み入れられ、100万石と推定され、1万石につき250人の兵役で、総兵力2万5千とされているが、信長公記では4万5千となっており、正確な実数は不明である。
^ かつては富春院の北側に氏真が父の菩提を弔うために建立した陽光山天澤院(開山は臨済寺三世・東谷宗杲和尚)があったが、江戸時代末期に衰退したため、木像を臨済寺に移し、明治24年(1892)には廃寺となり、墓も臨済寺に移した。その跡地に慰霊塔が建立された。また、富春院には義元の位牌(高さ58cm)がある。
^ 岡部家は代々岸和田藩主。
^ 今川氏親の次女で寿桂尼の甥である中御門宣綱の正室。夫と共に度々駿河に下向して寿桂尼を頼っていたため、彼女の実娘と考えられる。なお、氏親の長女である徳蔵院(吉良義堯室)も寿桂尼の実娘と考えられる[20]
^ 軍師の太原雪斎が桶狭間前に亡くなったことも影響している。詳しくは本人の欄を参照。
^ 異本の金吾利口書および宗滴夜話には、今川殿となっており、義元も指すかは不明瞭である。

出典^ 二本松市史. 第5巻 (資料編 3 近世 2) 、著者 二本松市 編集・発行、出版者 二本松市、出版年 昭和 54.2 1979-2002 第二編 25 世臣伝 一之上/604?616頁より引用
^ “【戦国こぼれ話】桶狭間の戦いで無念の死を遂げた戦国大名今川義元は、公家化した軟弱大名だったのか(渡邊大門)”. Yahoo!ニュース (2021年4月28日). 2021年9月29日閲覧。
^ 大石 2019, pp. 10?11, 「総論 今川義元の生涯」.
^ a b 黒田 2019, p. 101, 大石泰史「花蔵の乱再考」.
^ a b 黒田 2017, pp. 58?61.
^ 『桶狭間の戦い』小学館〈新説 戦乱の日本史 第10号〉、2008年。 
^ 今枝愛眞「戦国大名今川氏と禅宗諸派」『静岡県史研究』14号、1997年。 /所収:黒田基樹 編『今川氏親』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二六巻〉、2019年4月、264-265頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4-86403-318-3。 
^ 大石 2019, p. 12, 「総論 今川義元の生涯」.
^ 小和田哲男『週刊ビジュアル戦国王』第77号、2017年12月19日、23頁。 
^ a b 小和田 2004, p. 68.
^ 永禄11年3月10日付円良寺宛氏真判物:「円良寺文書」所収/『戦国遺文』今川氏編2186号
^ 黒田 2019, 柴裕之「松平元康との関係」「桶狭間合戦の性格」.
^ 黒田 2019, p. 278, 柴裕之「松平元康との関係」.
^ 黒田 2019, pp. 298?300, 柴裕之「桶狭間合戦の性格」.
^ 「今川義元もっと知って/来年生誕500年祭/静岡 地元で票世紀再評価・発信」『日本経済新聞』夕刊2018年7月7日掲載の共同通信記事(2018年7月12日閲覧)
^ 『読売新聞』令和元年6月5日水曜日25面記事
^ 笹間良彦『イラストで時代考証 日本合戦図図典』雄山閣、1997年。 
^ 小川剛生『武士はなぜ歌を詠むのか 鎌倉将軍から戦国大名まで』角川学芸出版、2008年7月、241-242頁。 
^ “軟弱もの、公家かぶれ…負のイメージ根強い今川義元 復権へ地元が全力”. 産経ニュース (2020年5月19日). 2022年8月27日閲覧。
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