今川義元
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花倉の乱による内部対立を引き摺ったまま家臣団の統制がとれなかった今川軍は、北条軍に対して適切な反撃が行えず河東(現在の静岡県東部)を奪われてしまう。義元は武田の援軍と連帯して領土奪還を試みたが、花倉の乱で恵探側に組した堀越氏井伊氏といった遠江に基盤を置く反義元派の武将らが義元から離反したため、家臣の反乱と北条氏の侵攻との挟撃状態に陥り、河東は北条氏に占領されたまま長期化の様相を見せた。

さらに追い討ちをかけるが如く、尾張国愛知県西部)の織田信秀が天文9年(1540年)に三河国(愛知県東部)に侵攻を開始した。義元は三河に援軍を送り三河の諸侯軍と連合して天文11年(1542年)に織田軍との一大決戦に臨むが、その猛攻の前に敗れたとされている(第一次小豆坂の戦い。ただしこの戦いは後世の創作である可能性もあり)。天文10年(1541年)、苦杯を嘗めさせられた北条氏綱が死去、北条氏は氏康が家督を継いだ。『高白斎記』によれば、同年5月25日に甲斐国の武田信虎は嫡男の武田晴信(信玄)を伴い、信濃国の諏訪頼重村上義清とともに信濃佐久郡侵攻を行う(海野平の戦い)。信虎は6月4日に甲斐へ帰国すると、6月14日に義元訪問のため駿州往還を経て駿河へ出立するが、晴信により路地を封鎖されるクーデターが発生する。義元は信虎の身柄を預かりつつ、家督を相続した晴信とも同盟関係を続け、高遠合戦では武田に援軍を派遣した。

苦しい状況が続く中、天文14年(1545年)、義元は氏康と敵対する山内上杉憲政と同盟を結び、北条氏を挟み撃ちにする策を立てた(第二次河東一乱)。同年8月22日、義元と憲政との同盟によって河東と関東方面に戦力が分断される形となった北条軍に対して、義元は武田の援軍を得て河東に侵攻し、同じく関東においては両上杉氏(上杉憲政・上杉朝定)が古河公方足利晴氏らと連合し8万の大軍で河越城を包囲した。河東では今川軍が北条軍を打ち破り、関東では上杉連合軍が河越城を包囲し続け、北条軍は西の今川軍と東の上杉連合軍との挟撃状態に陥り、窮地に立たされた。進退窮まった氏康は武田晴信に仲介を頼み、義元との交渉で河東の地を今川家に返還するという条件で和睦、今川氏は北条氏との争いに実質的に勝利した。これにより一先ず西方に安堵を得た氏康は関東方面に戦力を集中させ、河越城の戦いにおいて苦境から一転、逆転勝利を収めた。河東の地の遺恨を巡って両者の緊張関係は続いたが、北条氏が関東方面への侵攻に集中していったことで徐々に両者の緊張関係は和らいでいった。

一方、三河においては西三河の松平広忠の帰順を受け、嫡男・竹千代(後の徳川家康)を人質に迎え入れる約束を交わし、尾張の織田家の妨害を受けつつも、着実に三河勢の従属化に努めていった。この際、護送を請け負った三河田原城(愛知県田原市)の国人領主・戸田康光が裏切って竹千代を敵方の織田氏に送り届けてしまうという事件が起こった。これは前年に義元が戸田氏の一族である戸田宣成、戸田吉光の一族を滅ぼしたため、戸田宗家の当主であった康光が反乱を起こしたものであった。これに対して義元は戸田宗家を武力でもって徹底的に滅ぼし、その居城であった田原城に有力家臣である朝比奈氏を入れた。ただし、これについては近年、松平広忠・戸田康光連合軍と松平家内部の反主流派であった松平信孝酒井忠尚の要請を受けて介入した今川義元・織田信秀連合軍の戦いであり、その結果戸田氏は義元に滅ぼされ、松平氏は信秀に岡崎城を奪われて竹千代を人質に出すことで許されたとする新たな見方も浮上している[12]

天文17年(1548年)、義元の三河進出に危機感を覚えた織田信秀が侵攻してくるが、義元の軍師である雪斎と譜代重臣である朝比奈泰能らを大将とした今川軍は織田軍に大勝した。(第二次小豆坂の戦い)。またこの頃までに松平信孝を滅ぼした松平広忠も再び今川方に帰属している。
領国拡大.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに今川仮名目録の原文があります。

天文18年(1549年)に松平広忠が死去すると、義元は領主が死去して不在となった松平家に対して支配していた西三河地域を今川家の領土にしようとした。嫡子の竹千代は織田の人質となっていた事から、岡崎付近に向けて今川軍を派遣した。岡崎城(現在の愛知県岡崎市)に家臣を送り込み、事実上松平家の所領を領有した。松平家の支配下にあった三河国の国人領主を直接今川家の支配下に取り込んでいった。また、織田方の三河安祥城を攻略(現在の愛知県安城市)して、織田家の勢力を事実上三河から駆逐した。これにより継承直後から続いた西の織田氏との争いは今川氏勝利の形で決着した。また、このおり信秀の庶長子にあたる城将・織田信広を捕らえ、人質交換によって竹千代を奪還、実質自らの配下とすることで尾張進出への足掛かりを着々と築いていく[注釈 7]。天文20年(1551年)に織田信秀が死去すると尾張への攻勢を一段と加速させる。

更に天文22年(1553年)には亡父の定めた今川仮名目録に追加法(仮名目録追加21条)を加えたが、ここにおいて現在の今川領国の秩序維持を行っているのは足利将軍家ではなく今川氏そのものであることを理由に、室町幕府が定めた守護使不入地の廃止を宣言し、守護大名としての今川氏と室町幕府間に残された関係を完全に断ち切った。これは、今川氏は既に室町幕府の権威によって領国を統治する守護大名ではなく、自らの実力によって領国を統治する戦国大名であることを明確に宣言したものでもあった。

天文23年(1554年)、嫡子・今川氏真に北条氏康の娘(早川殿)を縁組し、武田氏・北条氏と互いに婚姻関係を結んで甲相駿三国同盟を結成した(この会談は善徳寺の会盟とも呼ばれている)。これにより後顧の憂いを断った。

また弘治元年(1555年)に行われた第二次川中島の戦いでは武田晴信と長尾景虎の仲介を行って両者の和睦を成立させた。駿河・遠江・三河で検地も実施している。その一方で、三河を巡る織田氏との対立が激化し、これに触発された吉良氏奥平氏などが今川氏に叛旗を翻した。これを三河?劇(みかわそうげき)と呼ぶ。

永禄元年(1558年)には、支配下においていた松平元康をして、三河加茂郡寺部城の鈴木重教を攻めさせて下した。

同年、義元は氏真に家督を譲り隠居する。これ以後、今川氏の本国である駿河・遠江に発給される文書の著名は氏真名となる。一方、義元は新領土である分国の三河の鎮圧および経営に集中し、それが成るとさらには尾張以西への侵攻に力をそそぐこととなる。
最期詳細は「桶狭間の戦い」を参照

永禄3年(1560年)5月には那古野城を目指し駿・遠・三2万余の軍を率いて尾張国への侵攻を開始[注釈 8]。織田方に身動きを封じられた大高城(現在の名古屋市緑区大高)を救うべく、大高周辺の織田方諸砦を松平元康などに落とさせる。幸先良く前哨戦に勝利した報せを受けて沓掛城で待機していた本隊を大高城に移動させる。ところがその途上、桶狭間(おけはざま)山で休息中に織田信長の攻撃を受け、松井宗信らと共に奮戦するも、織田家家臣・毛利良勝に愛刀・義元左文字と首級を奪われた。享年42。

その後、残存した今川兵によって駿府まで連れ帰ろうと試みられたが、首の無い義元の遺体は想像以上に腐敗の進行が早く、三河国宝飯郡埋葬された。
死後ウィキソースに東照宮御実紀附録の原文「(徳川家康は)いつも御上洛の度毎に、尾張国桶狭間をすぎさせ給ふとき、義元が墳墓の前にては、御輿を下らせ給ふ、御供の輩いづれも其御厚義を感じて、涙落さぬはなかりし、また氏真が寓客となりしとき、常に御座近く参りけるにも、むかしをわすれ給はで、礼遇の厚くまし??けるとて、見るものみな感じたてまつれり、〈三河記、古老物語、前橋聞書、〉」があります。

織田方に討ち取られた首級は、鳴海城に留まり奮戦する義元の重臣・岡部元信と信長との開城交渉により後に返還され、駿河に戻った。義元の戦死により氏真が後を継いだが、この混乱に乗じて松平元康(後の徳川家康)が西三河で自立(独立)した。この動きに追従する様に東三河でも戸田氏・西郷氏などが離反、松平氏の傘下へ転属していく。この様な三河の動揺が隣国・遠江に伝播すると、正誤の判別がつかない噂が飛び交い、遠江領内は敵味方の見極めさえ困難な疑心暗鬼の状態に陥ってしまった(遠州錯乱)。この動揺期において氏真は若輩だったこともあり人心掌握の才に欠け、井伊直親飯尾連龍などを粛清することで事態の収拾を試みたが、逆に人心の離反を加速させてしまい家臣(国人領主)の離脱が相次いだ。多くの国人領主の支持を失い自国領内すらまともに統治できない状態となった今川氏は、見る見るうちに衰退していき義元の死から9年後の永禄12年(1569年)、氏真は信玄と家康によって駿河・遠江を追われ、大名としての今川家は滅亡した。

駿河追放後、氏真は妻・早川殿の実家北条家に身を寄せたが武田・北条の同盟が復活すると徳川家康の家臣となる。江戸期に今川氏は高家旗本として幕臣に列した。
墓所・祈念碑
塚・墓など


愛知県
豊川市牛久保町の大聖寺(胴塚、一色時家の墓の隣)

愛知県西尾市駒場町の東向寺首塚


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