今川氏親
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^ 『宗長日記』によれば永正15年(1518年)頃から病気で領国統治も軍事行動も行えなくなったとするが、その後も発給文書を出している上、義元の誕生前にあたるため、初めはそこまで重くなかったとみられる。氏親が重篤になるのは発給文書から氏親の花押が消える大永3年(1523年)以降と推定される[41][42]
^ 法名徳蔵院殿芳山春公大姉。『土佐国蠧簡集残篇四』所収「今川系図」では氏輝が先にかつ嫡男と記されながら、嫡女の記載がある。これを根拠に黒田は氏輝の姉としている。[50]
^ 法名竜泉院殿光厳瑞国大姉。
^ 『土佐国蠧簡集残篇四』所収「今川系図」、『寛永諸家系図伝』など
^ 今川氏の系譜を見ると、瀬名貞綱の室は義元の「妹」[注釈 6]とされているが、『言継卿記』弘治2年11月28日条の「瀬名殿女中(中略)太守の姉、中御門女中妹」の記述から、実在の確認できる氏親の娘は全て義元(=『言継卿記』の「太守」)の姉となる[53]

出典^ a b c 大久保俊昭. “今川氏親(いまがわうじちか)とは - コトバンク”. 2017年7月22日閲覧。
^ 小和田 1983, p. 142.
^ クロニック戦国全史 1995, p. 91.
^ 二本松市史. 第5巻 (資料編 3 近世 2) 、著者 二本松市 編集・発行、出版者 二本松市、出版年 昭和 54.2 1979-2002 第二編 25 世臣伝 一之上/604?616頁より引用
^ 大塚勲「今川氏親年譜史料」『今川史研究余録』(私家版)、2008年。 /所収:黒田 2019, pp. 158?159
^ 黒田 2005, pp. 13?17.
^ 小和田 1983, pp. 133?134.
^ 小和田 1983, p. 134.
^ 家永 2013, pp. 235?236.
^ クロニック戦国全史 1995, p. 96.
^ 家永 2005, p. 46.
^ 家永 2013, pp. 236?238.
^ 黒田 2019, 「戦国大名・伊勢宗瑞」.
^ 黒田 & 2019-01, p. 44.
^ 小和田 1983, pp. 148?149.
^ 黒田 2019, p. 18, 「今川氏親の新研究」.
^ 家永遵嗣「今川氏親の名乗りと足利政知」『戦国史研究』59号、2010年。 /所収:黒田 2019, pp. 83-88・91
^ 黒田 2019, pp. 18?20, 「今川氏親の新研究」.
^ クロニック戦国全史 1995, p. 125.
^ 小和田 1983, pp. 153?154.
^ 黒田 2019, pp. 20-21・34・38-39, 「今川氏親の新研究」.
^ 黒田 2019, pp. 21?34, 「今川氏親の新研究」.
^ 『靜岡縣史料』4輯、靜岡縣、1938年、192頁。
^ 黒田 2019, pp. 35?36, 「今川氏親の新研究」.
^ 黒田 2019, pp. 20-21・36, 「今川氏親の新研究」.
^ 平山優『武田信虎 覆される「悪逆無道」説』戎光祥出版〈中世武士選書 42〉、2019年、46-47頁。
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