今川氏真
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^ 生年は明らかではないが、子の義弥(天正14年、1586年)の生年から、駿河時代の子と推測される。氏真が北条氏を頼って逃れた際の文書に「氏真・御二方」を引き取ったという文言があることから、氏真は早川殿と共に娘を伴っていたと考えられることも、推測を補強する[5]
^ 伝十郎と称した。生年は不詳。慶長18年(1613年)11月3日没。
^ 天正7年(1579年)生まれの末子。聖護院准后・道澄の弟子となる。若王子住職・熊野三山修験道本山奉行となり、承応元年(1652年)に没した。
^ 初めて駿河守護となった範国から数えた代数。家祖・国氏から数えると12代目ということになる。ただし、今川範氏の嫡男で、室町幕府によって家督継承の承認と駿河守護職への補任が行われた直後に死去した氏家を5代当主として数えるべきだという見解[6]もあり、その考え方に従えば氏真は13代目となる。
^ 初見文書は永禄元年閏6月24日付の遠江河匂庄老間村の寺庵中宛安堵状。
^ 丸島和洋は松平元康の動きを氏真が看過していたのは、元康の岡崎城への帰還は桶狭間の戦いの勝利に乗じた織田軍の西三河侵攻を警戒していた氏真の許可を得たものであったからだとする新説を出している。丸島説では、元康が氏真の命令で岡崎にて織田軍と対峙しているにもかかわらず、三国同盟を重視した氏真が上杉謙信に攻められた小田原城への救援を優先したことで西三河で無援状態となった元康が織田氏と和睦して氏真からの独立を決意したとする[8]
^ 平野明夫は足利義輝の御内書は永禄4年(1561年)1月に出されたとする[10]。一方、柴裕之は今川氏真自身が松平元康(徳川家康)の反逆を永禄4年4月の出来事と認識している別の文書[11]の存在を指摘して、この日付よりも後にあたる永禄5年(1562年)1月に出された文書とする[12]
^ この合戦については永禄7年(1564年)に起こったものとするもの(『三河物語』など)もあり、細部も異なる話も伝えられている。また、平山優によれば武田信虎は永禄年間には子や孫を氏真に託して自身は室町幕府に仕えて京都と駿河を往復する生活を送っており、氏真と敵対するような状況にはなかったとされる[15]
^ 永禄6年(1563年)5月に御相伴衆になったとする[20]
^ 若林淳之は、氏真が国人的土豪層を基盤とする従来の守護大名的秩序の行き詰まりを受け、直接年貢負担者(本百姓)を基盤とする戦国大名的秩序への脱皮を図ったが、再編の混乱の中で侵攻を受け成果を見なかったと評価している[23]
^ 丸島和洋は桶狭間の戦いの際に武田氏が今川軍に援軍を送っていた可能性を指摘し、にもかかわらず義元も戦死する大敗に至ったために今川家中では武田軍の戦での働きぶりに不満や不信が上っていたと推測する[24]
^ 義信事件。義信事件の経緯については武田義信を参照。
^ 駿河に戻った嶺松院は出家し、貞春尼と称した。『今川家瀬名家記』によると、後の時代に貞春尼は徳川秀忠の御介錯上臈(武家の嫡男の教育を取り仕切る女性家老)として徳川家に仕えた。
^ 山田邦明はこれを「降伏許可状」と呼称している[29]
^ 『校訂松平記』によると、信玄が氏真の殺害を図って小田原に人を送ったためという。『北条五代記』にも同様の記事があり、氏真が「中々に世をも人をも恨むまじ 時にあはぬを身の科にして」という一首を詠んだと記されている
^ 氏真は16日の会見以前に「千鳥の香炉」「宗祇香炉」を献上しており、この日の会見で、信長は宗祇香炉のみを氏真に返却している。
^ 恐らく家康に従ったものと思われる。『続武家閑談』『紀伊国物語』にも氏真が家康に同道していたことが記されている。
^ 『志士清談』によると、氏真は秀吉の頃に400石の捨扶持を与えられ、京都四条で世捨て人のような暮らしをしていたという。
^ 今川家の衰微を見かねた若王子が分けたもの(『甲子夜話続編』)、建武年間に今川範国が領主だった由来のもの[45]、室町時代に今川家が在京費用のために領有していたもの[46]など諸説ある。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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