今井町
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そして、明智光秀や筒井順慶と親しい堺の豪商津田宗及の斡旋により今井郷に対して11月9日に信長から朱印状(今井郷惣中宛赦免状)が付与され赦免された。同年冬に信長は、今西家南側に本陣を構え、武装放棄を条件に「萬事大坂同前」として、この町に大坂と同じように検断権自治権)を認めた。それ以降、今西家の土間をお白州に見立ててお裁きが行われた。その折に信長は褒美として様々な物品を下賜し、今西家を眺め「やつむね」と唱えて本陣を後にしたことが旧今井町役場の資料に残っている。このように、今井郷に対する処遇は、他の一向宗寺内町の扱いとは別格で寛大なものであり、自治都市として「海の」「陸の今井」と謳われて栄えた。特に堺との連携と交流は、中世ヨーロッパの都市同盟を彷彿させ、竹内街道を通じて幕末まで毎日行き来した。また、江戸時代に鎖国政策が採られるまでは、堺と共にホイアントンキンタイルソンカンボジアなどの東南アジア諸国との交易が盛んであった。

信長の死後、1575年(天正3年)から疎開していた今井道場坊主の河瀬兵部丞は、天正10年(1582年)に今井へ復帰している。今井御坊が復興されるのは、豊臣秀吉の時代となってからで、今井宗久の遺領である摂津住吉郡内にある代官職を握った。河瀬姓を今井兵部房と改め、大和守護職が筒井氏から豊臣秀長に代わり、今井兵部富綱は進んで豊臣氏の家臣となった。また、秀吉から認められて明治初年頃まで残存していた町の入口に開く番屋まで付属した9つの(東側3ヶ所、西側1箇所番屋付設、南側3ヶ所、北側2箇所)は自治都市としての特権の象徴であった。これらの門は朝6時から夕方6時まで開閉され、夜間は4門のみを指定して吟味の上出入りせしめた。特に大坂・堺への玄関口である本町筋の西門は番屋を建てて厳重なのもとした。また、門番は門の内側に屯して夜警を兼ね、町内巡邏の任に当たっていた。町内には旅籠屋が全く無く来泊者は通常一日を限度として、二泊以上宿泊する場合は町年寄に届出が必要であった。このように、町独自の「町掟」も決められ「明和元年町内掟書」1764年明和元年)によると17条にわたって、上納・売買・消防・自身番の規定・博打の禁止・道路の保全・濠溝の保護・焙煤清掃・節約勤倹など町民相互の社会道徳や保全を説き諭し、自治自衛が徹底された。ことに消防の規定は厳格で、古来から火事のない町である事が窺い知ることができる。
江戸時代

1600年慶長5年)関ヶ原の戦いの後、一時的に幕府領となり大久保長安が代官の任に就いている。

1614年(慶長19年)になると、徳川方は豊臣方を完全に滅ぼすために戦を挑んだ。大坂冬の陣を経て、翌1615年元和元年)の大坂夏の陣には、退勢の大坂方は河内平野に出て交戦し、この同士たる大和の大坂方牢人、筒井、箸尾・布施・萬歳・細井戸の諸士はその先鋒として郡山城を襲い、町家の大半を焼き、奈良に向かったが防禦厳なるによって、鉾先を転じて今井を攻撃した。この時、今井西辺において大坂方の大野治房らと激戦があったが河合清長以下の活躍により町は無傷のまま残った。

郡山城は1615年(元和元年)7月、大坂夏の陣の後、水野勝成が6万石で封ぜられ、ついで1619年(元和5年)8月には徳川家康の外孫である松平忠明が12万石で入り、1621年(元和7年)5月に今井を巡見し、町政の体制を整えた。1629年(寛永6年)の「納米同払方帳」(今西家文書)によると、「高三百三拾石三斗五升」のすべてが取米にされており、10割の高い税率を課せられている。しかもこの上に、口米・目払・夫米などの付加税が課せられている。これは、今井町が土地生産に依存するところが少なく、商売によって成り立っていたから高い貢納に耐え得たのであり、相当に貨幣経済の進んだ商売繁盛の町の証しと言える。今井札

1634年寛永11年)には全国にさきがけて幕府から許可を得て、札元となり、藩札と同じ価値のある独自の紙幣である「今井札」が発行され、74年を通じて広く近郷に用いられたが、兌換の円滑さから国中でも信用性が高かった。その後、幕府は1707年宝永4年)10月に硬貨の流通を妨げるものとして札遣いを全国的に禁止したが、今井町の兌換準備は充分であって、その引き換えにあたって滞りなく処理せられ国中で有名な話題になった。(尾崎家文書)各種商工業・金融業の展開、周辺農村における所持地の増大は、そうした当町の繁昌ぶりを示すものである。町人の中には桜田御料の掛屋をした尾崎家や福井藩の蔵元を務めた牧村家や郡山藩に多額の献金をしていたことなど、各藩や旗本の財政に関与したものも多く、たびたび調達金や上納金を上せている。したがって、代々の支配者からは今井町は有力な領地として民心の確保に努められた。鎖国後、自治都市において確立された自由取引の原則は、株仲間の結成によって破られた。株仲間は同業者の営業組合であるが、為政者側からは、商業上の取り締まりに便宜であり、鑑札料や冥加金の上納を受けることができたので奨励している。このようにして、商業の規模と性格によって大坂・堺に属した株仲間、国中全体に通じるもの、今井町のみのものと種々とあったが今井ではこの制度が早くから盛んであった。

元禄年間には今井町覚書(元禄二年)によると「国の買人寄つとひ、市中交易繁美にして商家の都の地にひとしく、又は諸大名御旗本の蔵元賄御用達輩、当所より弁勤するの家柄も数多くありて、困窮の義のさらなき故、人足駕籠の頼みもおのづから不自由なり、猶さら商人親類の外は従来の旅人は一夜の宿も貸さず、要害堅固の地なれば他方人にうらやまさらんはなかりけり」とあり、「大和の金は今井に七分」と称されるまでになった。17世紀後半から18世紀初頭の様相をよく物語る史料として、「寛文年中より宝永年中迄者、銀札多通用仕、米穀ハ吉野郡下市・上市・五條辺より銀子持参仕、買ニ参、味噌・醤油・酒・油之類、東山中重ニ引請、二里・三里四方江商売仕候、繰綿並古手・木綿類、武州・相州其外国々江送り出し、辺土之場所ながら、三四拾年以前迄は殊之外繁昌仕候御事」とあり今井町が当時、地域市場の中心として、また繰綿をはじめとする遠隔地商取引の拠点として「殊之外繁昌」していた様子がよくうかがえる。

その後、1679年(延宝7年)に今井町は、4代将軍徳川家綱によって天領に編入され、今井家と今西家は武士の資格を停止せられ、今井家は純然たる釈門に帰し、今西家は郷中並の惣年寄筆頭となる。これによって、町内に武門は跡絶えることとなり、事実上自衛権を剥奪されて1575年(天正3年)から104年間続いた自治都市制度を終焉し、環濠西側の外部に同心屋敷と呼ばれる代官所が設けられた。しかし、幕府にとって今井町の財力は大きな魅力で、他とは違う支配体制で優遇した。つまり、今西家、尾崎家、上田家の三人の惣年寄を頂点に町年寄町代を置き、警察権・司法権・行政権を与え、自治的特権を与えた。なお、死罪については代官に引き渡した。天領編入を機に、名称も公式に「町」と呼称されるにいたり、年貢割付状にも高掛三役が課せられ、景況も下りに向かい、人口も次第に減少の傾向をたどっている。その後、1736年(元文元年)から芝村藩預りとなり、1794年(寛政6年)から1869年(明治2年)まで高取藩領りになった。


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