今井武夫
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第14軍本間雅晴軍司令官)隷下でマニラ占領後の警備集団として編成された第65旅団隷下の福山編成歩兵第141連隊連隊長として今井は赴任。太平洋戦争開始とともに、フィリピンに出征。第141連隊は貧弱な装備ながらも、バターン半島で待ち構えていた米比軍と戦い、かなりの損害を出したが、サマット山の支山で戦略要地のリマイ山を占領して、本間雅晴軍司令官からバターン攻略戦で第65旅団唯一の賞詞を受ける。

この間に参謀辻政信が発したといわれる千余名の米・比人捕虜の処刑命令に抗して、今井は捕虜を武装解除させたのち、逃している。この後、今井はマニラの防衛司令官として数ヶ月、中部ルソン島の戡定(かんてい)作戦 に従事した。
大東亜省時代

1942年(昭和17年)11月から、新設された大東亜省参事官として、同郷長野の青木一男初代大東亜相のもと、1年9ヶ月間、南京の汪兆銘国民政府の自主性を尊重、かつ、日本軍官の政治干渉を控えさせるなどの対中国政策の推進をはかるなどした。
支那派遣軍、終戦

1944年(昭和19年)8月、支那派遣軍に戻り、総参謀副長兼中国大使館付駐在武官(陸軍少将)となる。終戦1ヶ月前に軍服を中国服に変えて、敵地の河南省に飛び、何柱国上将(大将)と最後の和平工作を行った。大本営も狂喜したというが、時すでに遅く敗戦となり、岡村寧次大将らと南京で日中戦争終焉の場(受降式)に立ち会った。
終戦処理

1945年(昭和20年)8月、日本政府による連合軍のポツダム宣言受諾後、岡村寧次支那派遣軍司令官の指示を受け、8月21日に終戦予備交渉のため、中国側が指定した湖南省の?江(しこう)の地に赴き、中国軍の何応欽総司令たちと支那派遣軍の停戦交渉を行った。9月9日南京で行われた支那派遣軍の受降式直後、「今井は戦犯でない」と何応欽上将から明言された今井は、約1年半南京に残留し、総連絡班長として、日本軍将兵の復員や中国側から戦犯指定を受けた者の援護活動に従事し、日中戦争の後始末を行った。

中国との終戦処理は、?介石の「徳を以って怨みに報いる」方針に支えられ、それまで今井が中国との交渉過程で培った人間関係もあって、かなり順調に推移した。200万人とも言われる将兵の大陸からの引き揚げは、ソ連に侵攻された満州と異なり、比較的スムーズに行われた。勳二等瑞宝章受章。
家庭人として

妻きみ子との間に3男2女を儲けた。大変子煩悩だったが、長男(宏)は小学校入学前の6歳の時に病死し、次男(信夫)も麻布高等学校2年(17歳)の時にクモ膜下出血により死去した。

1953年度及び1954年度には、次女(孝子)と三男(貞夫)が通学した東京都中野区立塔山小学校PTA会長を務めた。在任中、中野区内の公立小学校ではいち早く水泳プールを開設するよう運動し、実現させた。1954年3月のプール開設式は、1,500m自由形世界記録保持者だった古橋広之進を招待して盛大に行った。

戦後友人たちに勧められて、戦時の活動を回顧し、その記録を上梓した。また、東京の自宅の仏壇に、フィリピン戦線で死去した部下たちの名簿を納め、併せて日中戦争で死去した関係者たちの慰霊のため、よく読経して過ごした。次女孝子の病死のショックもあって、1982年(昭和57年)6月12日に84歳で死去。墓は多磨霊園にある。

2009年(平成21年)9月4日に何応欽の長女麗珠と今井の三男貞夫と長女俊子が今井の生地・長野市で初めて対面した。両遺族は涙ぐんで喜び合い、平和を希求した父たちの思い出を語り合った。

2012年4月16日、長野市松代町豊栄にある明徳寺に、長野市の市民団体が中心となり、長野中学校同窓の栗林忠道と今井の顕彰碑が建立された。貞夫は、「父今井武夫は、硫黄島で戦死なされた栗林大将ほど、世に知られてはいない。然し、今回の顕彰碑建立は、父同様に日中和平に献身したが、世に知られること少なく、殉じた人たちの鎮魂にもつながるものと思う」と述べ、市民団体に感謝した。
史料・刊行文献

『近現代史料・関係文書目録 10 今井武夫関係文書目録』近代日本史料研究会、2007年8月
5000点以上の史料を自宅に遺した。その主な史料表題

今井貞夫『幻の日中和平工作 軍人今井武夫の生涯』高橋久志監修・解説、中央公論事業出版、2007年11月
三男で史料を編纂・整理、史料の補完を兼ねた伝記。序文:
伊藤隆(研究会代表)

広中一成『日中和平工作の記録 今井武夫と汪兆銘・?介石』彩流社、2013年7月
今井貞夫が提供した写真資料約400点を主に使用
著書

『支那事変の回想』
みすず書房、1964年。新版1980年ほか。

『日中和平工作 回想と証言 1937?1947』みすず書房、2009年3月。高橋久志・今井貞夫解説

加筆・訂正した遺したメモや証言テープをもとに増補改題

『昭和の謀略』原書房、1967年

『昭和の謀略 スパイ戦史シリーズ6』朝日ソノラマ文庫、1985年


『近代の戦争 5 中国との戦い』人物往来社、1966年。

証言


「実らず 日中和平工作」『昭和史探訪3 太平洋戦争前期』 番町書房 1975年、角川文庫 1985年 

通訳を務めた木村辰男と共に「支那派遣軍の降伏 ?江会談」『証言・私の昭和史5 終戦前後』學藝書林 初版1969年。旺文社文庫文春文庫で再刊。上記2冊は、各三国一朗によるインタビュー

脚注^ 今井貞夫『幻の日中和平工作 軍人 今井武夫の生涯』の表紙。
^ 波多野澄雄『幕僚たちの真珠湾』朝日新聞社、1991年。143 頁。

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