今井正
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石田民三監督の『花火の街』でチーフ助監督につき[10]中川信夫監督の『日本一の岡ッ引』ではスクリプターを担当、ほか志波西果並木鏡太郎渡辺邦男監督に1作ずつ助監督についた。

1937年(昭和12年)、J.O.スタヂオは合併で東宝映画京都撮影所となったが、所長の渾大防五郎に抜擢されて入社2年目で監督昇進を指名される[6][11]。異例のスピード出世となった。処女作の『沼津兵学校』に取り掛かるが、出演俳優が兵役に取られるなどして完成が遅れ、2年後の1939年(昭和14年)に公開された[6]。陸軍少将飯塚国五郎の実話を基にした『われらが教官』、井伏鱒二原作の『多甚古村』、石川達三原作の『結婚の生態』などと作品が続くが、いずれも成功作とはいえなかった。1943年(昭和18年)、朝鮮の国境警備隊と抗日ゲリラとの戦いを描いた『望楼の決死隊』を監督。西部劇さながらのアクションシーンを取り入れ、入念に作られたアクション映画として評判となったが、植民地支配を正当化する軍国主義映画のため、マルクス主義者の今井としてはマイナスになる作品だった[6][注釈 1]。同年、教育召集のため麻布歩兵第1連隊に入隊、3ヶ月で除隊した[12]
フリーに

戦後の映画界は、GHQが間接的に干渉し民主主義啓蒙映画の製作を指示されていた。1946年(昭和21年)の戦後第1作『民衆の敵』もその1本であり、戦中の財閥の腐敗を描いた。続いて作った『人生とんぼ返り』は、撮影技師中尾駿一郎と初めてコンビを組んだ作品で、榎本健一入江たか子が主演した人情喜劇となった。

1949年(昭和24年)、石坂洋次郎原作の青春映画青い山脈』前後篇を監督。戦後民主主義を高らかに謳い上げ、同名の主題歌とともに大ヒットを記録。今井も第1級の監督として注目される。この頃から自由に作品を作りたいと感じ、『青い山脈』製作後に東宝を退社してフリーとなる[13][注釈 2]1950年(昭和25年)に連合国軍最高司令官総司令部指令によるレッドパージの波が映画界にも及ぶと、今井も追放対象者としてリストアップされたが、フリーの立場で『また逢う日まで』を監督。戦争によって引き裂かれた恋人の悲劇を描き、主演の岡田英次久我美子のガラス窓越しのキスシーンが話題となった[14]。作品はキネマ旬報ベスト・テン第1位、毎日映画コンクール日本映画大賞、ブルーリボン賞作品賞に輝いた。
1950年代

その後、GHQの指令で左翼系映画人たちを映画会社5社から締め出すレッドパージが施され、それによって仕事ができなくなると感じた今井は、生計を立てる為に屑物の仕切り屋を開業するが、集めた鉄くずが朝鮮戦争の兵器に使われることを知るとこの仕事を辞めた[15]。その頃、レッドパージで追放された映画人が次々と独立プロを立ち上げて活動するようになり、今井も1951年(昭和26年)に山本薩夫亀井文夫らの新星映画社で『どっこい生きてる』を監督する。当時ニコヨンと呼ばれた日雇い労働者たちの生活を描いた作品である。

1953年(昭和28年)、東映に招かれて『ひめゆりの塔』を監督。沖縄戦で看護婦として前線に送られたひめゆり学徒隊の悲劇を描いた本作は大ヒットを記録し、発足以来赤字に悩んでいた会社を救った。その後、文学座と組んだ樋口一葉原作のオムニバス映画『にごりえ』、高崎市民オーケストラの草創期を描いた『ここに泉あり』など、独立プロ運動の1番手としてヒューマニズム映画の傑作を発表する。

1956年(昭和31年)、八海事件の裁判で弁護士を担当した正木ひろしの手記の映画化『真昼の暗黒』を監督。映画化にあたっては入念な調査を行い、裁判で死刑を宣告された被告の無罪を主張、警察・検察・裁判所の非を徹底的に批判した。製作時は裁判が継続中だったため、最高裁判所から圧力がかかるも、今井はそれに屈せず作品を作り上げ、キネ旬1位、毎日映画コンクール日本映画大賞、ブルーリボン賞作品賞を受賞した。

1957年(昭和32年)、東映で『』を監督。霞ヶ浦や湖岸の田園風景を背景に農村の貧困を描き、今井にとって初のカラー作品となる。同年公開の『純愛物語』は、原爆症の少女と不良少年の恋を描いた恋愛映画で、第8回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)を受賞した。1958年(昭和33年)の『夜の鼓』は独立プロで製作し、近松門左衛門の『堀川波鼓』を映画化した今井の初の時代劇である。この作品は封建時代の武士の妻の姦通事件を扱い、武家社会をリアリズムで描き出した異色作として評価された[16]

1959年(昭和34年)、人種差別批判をテーマにした『キクとイサム』を監督。黒人との混血の姉弟と、彼らを引き取って育てる老婆の交流を描き、本作は今井の代表作となった。今井は戦争や差別や貧困など社会的テーマを掘り下げ、それに翻弄される弱者の姿を同情を込めて美しく描いた作品を発表し続けた。
1960年代・1970年代

1961年(昭和36年)、『あれが港の灯だ』を再び東映で撮り、李承晩ラインをめぐる日韓関係の悪化を、在日朝鮮人の若い漁師を通して描いた。1962年(昭和37年)の『喜劇 にっぽんのお婆あちゃん』では老人問題を取り上げている。1963年(昭和38年)、中村錦之助主演で『武士道残酷物語』を監督。封建社会の残酷さを7つの物語で描き、第13回ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞する。

テレビの進出で映画が斜陽化する中、今井もテレビドラマに進出し、1966年(昭和41年)から「今井正アワー」で5本のドラマを演出。翌1967年(昭和42年)には渥美清主演の『渥美清の泣いてたまるか』で4本を演出し、後に『天皇の世紀』でも2本を演出している。

1968年(昭和43年)2月、住井すゑ原作の『橋のない川』を映画化するために図書月販の傍系会社ほるぷ映画を設立し、その社長に就任する[16][17]。翌1969年(昭和44年)に『橋のない川』第一部、1970年(昭和45年)に第二部を製作するが、第二部製作中に今井が党員の日本共産党部落解放同盟の対立により、同盟から妨害を受け、公開後も上映阻止運動が起きた[18]1971年(昭和46年)、永年にわたって幽閉生活を強いられている家族を描いた『婉という女』を監督するが、完成後に資金難からほるぷ映画は解散する。

その後は、渥美清企画・主演の『あゝ声なき友』、古巣の東宝で8.15シリーズの第6作『海軍特別年少兵』、小林多喜二の生涯を描いた『小林多喜二』、室生犀星原作の『あにいもうと』などを監督するが、1950年代の時と比べると不遇だった。


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