改革が共産党の指導のもとで進められなければならないことが保証されたにもかかわらず、世論の圧力は高まり、すぐさま改革を実施することが迫られた[12]。過激な意見も発信されるようになった。1968年6月26日には急進的な反ソビエトの議論が報道された[10]ほか、社会民主主義者は共産党以外の政党を結成し始め、新しい無所属の政治クラブも設立されたのである。党内の保守派は抑圧的な対応をとるよう迫ったが、ドゥプチェクは事態の穏健化と党の指導性を再び強調することを推進した[13]。4月のチェコスロバキア共産党幹部会においてドゥプチェクは、「人間の顔をした社会主義」の計画を発表した[1]。 5月には、第14回党大会が9月9日に早期開催されることを発表した。大会は行動プログラムを党規約に組み込み、チェコスロバキアを連邦に改組する法律を起草し、新しい中央委員会を選出する予定であった[14]。
ドゥプチェクの改革は報道の自由を保障するものであったので、主流のメディアにおいてはじめて政治的な批判が許されることとなった[15]。プラハの春の当時、チェコスロバキアの輸出面での競争力は低下しており、ドゥプチェクの改革では計画経済と市場経済を混合させることでこれらの問題を解決することが計画されていた。党内でも改革の進め方には種々の意見があり、混合経済を望む経済学者も、基本的には計画経済を維持することを望む経済学者もいた。ドゥプチェクは共産党の支配下で経済改革を進めることの重要性を強調し続けた[16]。
6月27日、著名な作家でジャーナリストであったルドヴィーク・ヴァツリークは『二千語宣言』と題するマニフェストを発表し、共産党内の保守派やいわゆる「外国」勢力についての懸念を表明した。ヴァツリークは、改革計画を実行するうえで民衆が主導権を握るように訴えた[17]。ドゥプチェク、党委員会、国民戦線、内閣は、いずれもこのマニフェストを糾弾した[18]。 ドゥプチェクによって検閲が緩和されたことで、ごく短期間ではあるが、言論と報道の自由は保障された[19]。この新しい開放政策は、強硬な共産主義の週刊誌だったLiterarni novinyがLiterarni listyと改称されたことにはじめて現れた[20][21]。 報道の自由はまた、チェコスロバキアの過去に対して、同国の人々がはじめて実直な考察を行う契機となった。多くの研究は、特にスターリン時代の共産主義体制下における同国の歴史に関するものであった[20]。あるテレビ番組では、作家のゴールドシュテュッカー
出版とメディア
報道機関、ラジオ、テレビも、学生や若い労働者がゴールドシュテュッカー、パヴェル・コホウト、ヤン・プロチャツカ(英語版)などの作家やヨゼフ・スムルコフスキー、ズデネク・ヘイズラー(チェコ語版)、グスターフ・フサークなどの政治的犠牲者に質問をすることができる会合を主催し、こうした議論に貢献した[25]。テレビはまた、秘密警察や監獄の管理の経験をもつ共産党の指導者と、政治犯との間の対話を放送した[22]。さらに特筆すべきは、この新しい報道の自由と、チェコスロバキアの市民の日常生活にテレビが導入されたことにより、政治的な対話が知的階級の領域から大衆の領域へと移行したことである。
1987年にゴルバチョフがプラハを訪問した際、彼のスポークスマンであるゲンナジー・ゲラシモフ(英語版)は、プラハの春とペレストロイカの違いは何かと尋ねられた際、「19年間」と答えたという[26]。
参考文献[脚注の使い方]^ a b “ ⇒The Prague Spring, 1968”. 2008年1月5日閲覧。
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