近世以前の日本においては、主に借金などの債務について人身を担保として、債務不履行時には身売りなどを行ったり、債務弁済の履行まで妻子や親族などを相手方にとどめておくことが行われ、これを人質と呼び、また、その対象となる人身も人質と呼ばれた。
徳川幕府は人身売買を厳禁としていたが、事実においては譜代奉公または年季奉公の形式をとってなされており、遊廓などへの身売りなども法律上は奉公の名義において許されたものであった。そもそも人質に至っては、一般的にこれを禁止する法律がなく、わずかに元禄御法式
に「女房を妾奉公に出す者之類附女房を質物に置く者 死罪、取持候者同罪、女房を質物に置く者 二十里四方追放」とあり、女房の質入れを禁止するにとどまっていた。そのため、義太夫節の浄瑠璃正本の中には、女性の質入れを取り上げた例もある。人質と称してはいるが、債権者が身柄を押さえているものではなく、一種の人身抵当(江戸期の用語では『書入』)に他ならない。債務不履行(質流)にあたっては、紀海音作『笠屋三勝二十五年忌』に「銀高四貫五百匁の質物には、其三勝(注.人名、借り手平左衛門の娘)霜月晦日過たらば、其方へ引取りて遊女奉公にやり成共、又女房になされう共、毛頭かまひ候はぬと、手形証文取ている(貸金四貫五百文の担保として、三勝を置くが、霜月末日(までに返済がなく)過ぎたときは、そちらで引き取ってもらって、遊女奉公に出そうとも、また、女房にしようとも、構わないとの証文をとっている)」とあって、その実情が窺い知れる。一方で、年季質物奉公人というものがあり、こちらは、債務のある間、貸主の元にあって、使役させられるものを言い、こちらは、債務元本に利子を付すことができない点で書入れとはその性質を異にした[10]。