人見絹枝
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人見 絹枝

アムステルダムオリンピック(1928年)にて
選手情報
フルネーム人見 絹枝
ラテン文字HITOMI Kinue
国籍 日本
種目短距離走
所属二階堂体操塾
生年月日1907年1月1日
生誕地 日本岡山県御津郡福浜村
(現:岡山市南区
没年月日 (1931-08-02) 1931年8月2日(24歳没)
死没地 日本大阪府吹田市
身長170cm
体重56kg

獲得メダル

陸上競技
オリンピック
1928女子 800m


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講演を行った高田高等女学校の運動部員達と共に(1927年)アムステルダム五輪女子800m走でリナ・ラトケ(右)と競り合う人見絹枝(左)

人見 絹枝(ひとみ きぬえ、1907年明治40年〉1月1日 - 1931年昭和6年〉8月2日)は、日本の陸上競技選手ジャーナリスト。日本人女性初のオリンピックメダリスト。100m200m走幅跳の元世界記録保持者。(100m、200mについては非公認[1]岡山県御津郡福浜村(現:岡山市南区)出身。
来歴

1907年(明治40年)1月1日、岡山県御津郡福浜村福成(現・岡山市南区福成)で人見猪作および岸江の次女として誕生した[2]。人見家はイネイグサを栽培する裕福な自作農家で、父・母・祖母・姉と人見絹枝の5人家族であった[3]。幼少期は魚とりや鬼ごっこをして遊び、友人は女の子よりも男の子の方が多かった[4]

1913年(大正2年)4月、福浜村立福浜尋常高等小学校尋常科(現・岡山市立福浜小学校)に入学[4]。小学生になっても「天下取りゲーム」でいつも一番で男児を悔しがらせたり、2階から飛び降りて下校するなど相変わらず活発な少女であった[4]。一方、学業成績も優秀で、特に国語が得意で、クラスでは級長を務めた[4]。6年生の時に担任の先生から短歌を習い、少女雑誌に匿名で投稿するなど、文学的才能を開花させた[4]1919年(大正8年)に尋常科を卒業した後は高等科に進み、「女子が学問をするなんて」と言われた時代に父・猪作は高等女学校への進学を勧め、倍率3.93倍の岡山県立岡山高等女学校(現・岡山県立岡山操山高校)の入学試験を突破した[5]

1920年(大正9年)4月、福浜小高等科1年を終え、憧れの岡山県立岡山高等女学校(岡山高女)に入学[5]。当時、大供にあった岡山高女まで毎日1里半(約6 km)の道を徒歩通学した[6]。同年9月に就任した校長の和気昌郎は全人教育を掲げ、「日本女性のたしなみ」として短歌を教える傍らで、生徒をテニスバレーボールの対外試合に出場させた[6]。入学してすぐの県庭球大会で岡山高女が岡山県女子師範学校(岡山女師、現・岡山大学教育学部)に負けたことに悔しさを覚え、高価なラケットを購入して夜6時まで練習に励んだ[7]。当初家族は人見が日焼けで真っ黒になることに難色を示したが、1921年(大正10年)5月の県庭球大会には父・猪作が応援に駆けつけている[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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