人見絹枝
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8月、アリス・ミリア主催の第2回国際女子競技大会ヨーテボリ)に日本人としてただ一人出場し、走幅跳で5m50の世界記録で優勝した。また立ち幅跳びでも2m47で優勝している。円盤投では32m62で2位、100ヤード走は12秒0で3位、60mで5位、250メートル走で6位(やり投と砲丸投は棄権)。個人得点15点を挙げ国際女子スポーツ連盟の名誉賞を授与された。なお、この遠征で初めて国外陸上競技の事情を知り、自分のトレーニングに生かすだけではなく専属コーチや年間を通じてのトレーニングの重要性などを著書を通じて広く後進に伝えた。

1927年4月、谷三三五にコーチを依頼し、5月、東京日日新聞社主催第3回女子体育大会(神宮)に出場。200メートル走で26秒1、立ち幅跳びで2m61の2つの世界最高を記録した(現在非公認)。走幅跳も5m54で優勝、大阪健母会主催・大阪毎日新聞社後援第4回日本女子オリンピック大会(美吉野)に出場。400mは61秒2で優勝したが、50mでは6秒8の同タイムながら橋本靜子(日方高等女学校 現・和歌山県立海南高校)に敗れた。人見にとっては国内の大会で初めての敗戦となった。6月、大阪女子体育研究会主催大阪時事後援第7回大阪女子運動大会(大阪)に出場。100mで12秒4の当時世界タイを記録する。8月、第14回全日本陸上競技選手権大会(現・日本陸上競技選手権大会)(神宮)に出場。50mは6秒7で、100mは12秒8で優勝した。10月、大阪体育協会主催第6回陸上競技選手権大会兼明治神宮体育大会近畿予選(大阪)に出場。50mは6秒5で、100mは12秒4の世界タイで優勝。11月の第4回明治神宮体育大会(神宮)に出場、双生児の寺尾正・文姉妹(府立第一高等女学校(現・東京都立白?高校))と接戦の末、50mは6秒4(当時世界タイ記録)で、100mは12秒5で優勝する。

1928年5月、健母会主催第5回日本女子オリンピック大会(美吉野)に出場、400mで59秒00の世界最高記録(非公認)を出した。100メートル走は12秒8で優勝。三種競技(194点)でも優勝し、そのうちの100mでは12秒4の世界最高記録(非公認)を出した。ほかは走高跳(1m43)、やり投(28m89)。第15回全日本陸上競技選手権大会(大阪)に出場。100mで12秒2を出し、走幅跳では5m98を跳び2つの世界記録を更新。6月、第4回インタークラブ選手権(ロンドン)に出場、走幅跳では5m59でイギリスのミュリエル・ガンを破り優勝した。しかし、100ヤード走ハンディキャップレースでは予選落ちとなった。7月、A.A.A.女子選手権大会(ロンドン)に出場、220ヤード走は26秒2で(予選の25秒8は当時世界タイ記録)、やり投は35m96で優勝したものの、100ヤード走、走り幅跳びではガンの前に敗れた。

1928年アムステルダムオリンピックに日本女子選手として初出場し、女子の個人種目全て(100m、800m、円盤投、走高跳)にエントリーした(走幅跳は採用されず、事実上100m一本に絞っていた)。7月30日、100m予選は1着で通過したものの、同日準決勝は12秒8で4着となり決勝進出を逃した。8月1日、800m予選を2分26秒2で通過する。8月2日、800m決勝は2分17秒6でドイツのリナ・ラトケに次ぐ2着となり、日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル)となった[注 2]。8月5日、走高跳の予選に出場するも1m40で予選落ちとなった。

8月、インターナショナル競技会(ベルリン)に出場、走幅跳は5m51で優勝。やり投は36m58で2位、100mは予選落ちしたが、最後の800mは2分23秒9で優勝した。10月、大阪体育協会主催第7回陸上競技選手権大会(大阪)に出場、100mで橋本靜子に2度目の敗戦を喫した(記録計時なし)。橋本の記録は13秒2だった。400mRでは所属チームW.S.C.が53秒2で優勝している。

この後、一旦競技から離れるが翌春練習を再開。競技者として各地に遠征する傍ら、後進の育成、講演会や大会に向けての費用工面に忙殺されてゆくことになった。

1929年4月、第6回日本女子オリンピック大会(美吉野)に出場する。三種競技(217点)で世界最高を記録(100m:12秒4、走高跳:1m45、やり投:32m13)、200mは26秒8で優勝する。80mHの13秒6は番外ながら日本新記録を更新した。5月、東京日日新聞社主催第5回女子体育大会(神宮)に出場し200mで24秒7の世界記録を出した。走幅跳は5m92で優勝、円盤投は34m18の日本新記録で優勝した。8月、国際女子オリンピック出場候補15名と2週間の合宿を行い、10月の日独対抗大阪大会(甲子園競技場)にも出場し100mで12秒4を記録した。朝鮮・日・独対抗競技(京城府)に出場、100mで12秒0、200mで24秒4、走幅跳で6m075を出した(100mと走幅跳は追い風5.8メートルのため非公認の世界記録)。中国・日本・独三国大会(奉天=瀋陽)にオープン参加し100mで12秒0、60mで7秒5を出している。11月、第16回全日本陸上競技選手権大会兼第5回明治神宮体育大会(神宮)に出場しており200mは25秒4で優勝、走幅跳は5m91で優勝、400mRでもL.A.C.チームの一員として51秒6の日本新記録で優勝した。

1930年2月、日本女子スポーツ連盟臨時総会で、国際女子オリンピック大会の遠征費捻出のため全国の女学校に応援袋を置き寄付を募ることを提案し、遠征費は出発の3日前に目標額に達した。5月、第7回日本女子オリンピック大会(美吉野)で三種競技に出場(201点466で優勝。100m:13秒0、走高跳:1m40、やり投:35m27)、国際女子オリンピック大会の代表6名が決定した。谷三三五の下、1ヶ月余合宿を行う。7月、日本女子スポーツ連盟・健母会主催渡欧女子選手送別競技会(大阪)で渡欧選手・女学校選手対抗リレーに出場、渡欧女子選手送別競技会(名古屋・椙山高女)に出場する。走幅跳で5m90を記録し、やり投では37m84の非公認日本新記録を更新した。9月6日、第3回国際女子競技大会(プラハ)に5人の選手を率いて出場(9月8日まで)、走幅跳では5m90で優勝した。三種競技は192点(100m:13秒2、走高跳:1m40、やり投:34m46)で2位、やり投(600g)は3位(37m1)、60mは3位(7秒8)、400mRは4位(52秒0)、100mは準決勝敗退、200mは決勝を棄権した。個人得点13点で2位となり、リレーの1点を加えた日本チームは参加18ヶ国中4位となった。9月7日、8日は雨でその後体調を崩した。9月11日、日本・ポーランド女子対抗競技会(ワルシャワ)に出場する。60m(7秒8)、100m(12秒6)、走高跳(1m40)、走幅跳(5m39)、円盤投(32m19)、やり投(36m55)に出場し日本チームは35点対54点でポーランドに敗れた。9月13日、日・英・独女子競技大会(ベルリン)に出場、100mは12秒4、走幅跳は5m56で優勝した。200mは28秒2で2位、やり投33m90で3位。9月14日はスイス観光し9月16日、パリで休養する。9月20日、日本対ベルギー対抗競技(ブリュッセル)に出場、100m(13秒4)、400mR(53秒4)、円盤投(29m13)、やり投(37m25)は優勝。800mでは2位になる。日本チームは52点対47点でベルギーに勝利した。同日深夜パリに戻るが高熱を出し、9月21日、日本対フランス女子対抗競技(パリ)に出場。走幅跳(5m61)、円盤投(31m19)、やり投(37m44)で優勝する。80m、200m、400mR、走高跳では2位になったが日本チームは38点対46点でフランスに敗れた。ロンドンから海路にて11月6日帰国した。

国際女子オリンピック大会は好成績ではあったが、チームとしても前回大会やオリンピックに比して結果が悪かった。帰途、新聞報道や手紙から日本での反応が冷たいことを知った選手達は深く傷ついた。しかも半月の内に5つの大会が集中し、肉体的にも大きな負担となった。帰国当日岡山の実家で休んだものの、翌日東京に発つ。後に扁桃腺炎になるが、正月までほとんど休みなく新聞社での仕事や募金へのお礼を行った。1931年(昭和6年)3月6日に病臥に伏し、大阪・十三から尼崎市塚口へ引っ越した[11]


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