アメリカの南北戦争は、奴隷解放戦争としての性格を性格の一つとして帯びていた。多くの黒人奴隷に経済基盤を支えられ、奴隷解放に反対していた南部の各州が敗れると、制度としてのアメリカの奴隷は、撤廃・解放されたが、実質的な差別は、根強く残った(ジム・クロウ法)。第二次世界大戦後の歴史では、ベトナム戦争の反戦運動に関連してマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師による公民権運動が、多数のアメリカ市民に影響を残した。 アメリカ合衆国は領土拡大の際の「邪魔者」として、インディアン(ネイティブ・アメリカン)を徹底的に排除する政策を実施した。第3代大統領トーマス・ジェファーソンはインディアンの保留地(Reservation)への囲い込みを推し進め、第7代大統領アンドリュー・ジャクソンは「インディアンは滅ぼされるべき劣等民族である」と合衆国議会で演説した。軍人のフィリップ・シェリダンの「よいインディアンとは死んだインディアンの事だ」という発言や、ウィリアム・シャーマンの「インディアンを今年殺せるだけ殺せば、来年は殺す分が少なくて済む」といった発言は、合衆国の民族浄化の姿勢をよく表すものである。 「インディアン強制移住法」の違法を合衆国最高裁判所が認め、「インディアンは人間である」と判決文に添付したのは1879年になってようやくのことであった。しかしそれ以後もインディアンは「Colored
「インディアン」への差別
アジア系住民に対する差別「日系人の強制収容」および「アメリカ合衆国の人種差別#アジア系住民に対する差別」も参照
黄色人種(アジア系)は北米やイギリスなどにおける東アジア系移民の学歴や生活水準は白人以外の人種の中にあって高い部類である。
一方、20世紀前半のアメリカやカナダでの中国系移民や日系移民の境遇をみると、苦力などの奴隷的境遇に落とされたり、また苦労して経済的地位を築いた後も「黄禍論」を背景とした排斥の動きに遭遇したという歴史がある。特に日系人は第二次世界大戦中は市民権を停止され、強制収容所に収容されるに至った。同じように米国と交戦していた他のドイツ系、イタリア系といった枢軸諸国出身者やその子孫はほぼ制限を受けることはなかったため、白人以外の人種の日本人に対する人種差別とみなされている。
南アメリカ大陸「インディアンとムラートがチノ(混血)を生む」という1770年の絵画
スペイン人侵入後の南米は、マヤ、アステカなどの征服地で彼らの国家を武力で滅ぼし、虐待・大量虐殺によって植民地支配し、先住民インディオを差別の中に置いた。
スペイン領では、ラス・カサスらキリスト教伝道師がインディアン保護に奔走するが、これは、結果的に労働力の代替としての黒人奴隷導入につながる。近代以降も白人、混血、インディオで社会階層が分かれている国家が少なくない。
インド亜大陸「ナクザリズム(ヒンディー語版)」も参照
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日本列島「日本のヘイトスピーチ」も参照
日露戦争後の日本は、非ヨーロッパ系の有色人種国家として唯一の列強であり多くの移民も送り出していたが、欧米帝国主義からの反発や日系移民への排斥問題を受けて、自国の存続権利を守るため「人種差別反対」の立場をとることが多かった[5]。 連合国の一員として参加した日本代表が第一次世界大戦後のパリ講和会議で、人種差別撤廃条項を提案するも、イギリス代表・アメリカ代表などの議長拒否権行使や全会不一致により不成立に終わっている。渡部昇一は、国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初であると主張している[6]。
第二次世界大戦では人種差別を国是とするナチス・ドイツと軍事同盟(日独伊三国同盟)を締結したが、欧州人でも白人でもキリスト教徒でもない日本人はナチスのユダヤ人迫害には非協力的だった。むしろ、満州国にユダヤ人自治州を建設する河豚計画が存在し、日独伊三国同盟成立後も五相会議でユダヤ人を迫害をしない旨を取り決め、他の枢軸国・占領地域のようにユダヤ人迫害に協力することはなかった。そのため、欧州から脱出するユダヤ人難民にとって、ソ連から満洲(中国東北部)を経て米国他へ逃避するルートは重要なものとなっていた。ただし、猶太人対策要綱にあるように、外交的な配慮からユダヤ人の保護に積極的に関与することは無くなっていく。当時日本の外交官として在カウナス日本領事館に勤務していた杉原千畝は数千のユダヤ人にビザを発給してその生命を救出することに尽力したが、これはあくまでも彼の個人的な判断によるものである[7]。人種差別の一例として元牧師の八巻正治は自著『聖書とハンディキャップ[8]』の中で「ある神学校の校長を務めたことがあり、現在は大衆伝道者として福音派の中では非常によく知られる伝道者は、各地の集会において自分のケニアでの伝道体験をもとにして、黒人の肌の色を弁舌たくましくオーバーに語り、会衆の笑いを引き起こす例話として多用しています。