人称
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これは全体のおよそ3分の2にあたり、ユーラシア大陸以外ではこのような標示が優勢である[3]

動作主と対象の両方の人称が標示される例(タワラ語)
kedewakamkami-uni-hi
犬鶏3SG.A-殺す-3PL.P
「犬が鶏を殺した」

次いで動作主(A)を表す項の人称だけを標示する言語が73あった。ユーラシア大陸の言語ではこれがもっとも普通であり、インド・ヨーロッパ語族ウラル語族ドラヴィダ語族チュルク語族などがこの標示をとることが多いが、北アメリカオーストラリアには見られないものである[3]。これに対して動作の対象(P)を表す項の人称だけを標示するものは少なく、24言語だった[3]

動作主の人称だけが標示される例(コボン語)
yadkajpak-nab-in
私豚殴る-FUT-1SG[A]
「私は豚を殺す」
対象の人称だけが標示される例(ヤワ語)
DorpinuspoMariannar-anepata
ドルピヌスERG.3SG.Mマリアンナ3SG.F[P]-叩く
「ドルピヌスはマリアンナを叩いている/いた」

また、動作主か対象かに関わらず、人称の階層の高い方だけが標示される言語が6あった。人称の階層は一人称が最も高く、第三人称が最も低い(1>2>3)。このような言語では、動作者の人称が対象の人称よりも低い場合、逆行態(INV)という特別な動詞のかたちが使われる。

人称の階層の高い方が標示される例(ノクテ語)
a.nga-maatehe(i)tho-ang
私-ERG彼.ACC教育する-1SG[A]
「私が彼を教育する」
b.ate-manga-nanghe(i)tho-h-ang
彼-ERG私-ACC教育する-INV-1SG[P]
「彼が私を教育する」

動詞の人称標示は接辞によることが多いが、接語による言語も存在する。例えば、ティンリン語では動詞句の最初に人称を表す接語が付く。また東南テペファン語では、文の最初の句の次に人称の接語が付く。

接語による人称標示の例
(ティンリン語)[4]
a.treanrurri=fiwinrofonri
人々3PL[S]=行く沿う川
「人々が川沿いを行く」
b.u=nrafiwai
1SG[S]=PROG行くすでに
「私は今行くところです」
c.rri=seesaafiwakenyorro
3PL[S]=NEG一緒にいつも料理する
「彼らはいつも一緒に料理するわけではない」
(東南テペフアン語)
a.vacocoi=m=?tgua'ahl
眠る=3PL[S]=PERFART子供
「子供たちは眠りについている」
b.aptuvusta'm=ach=ichvaji
バスで=1PL[S]=PERF行った
「私たちはバスで行った」
c.pa=pimducva-'aiy-a'mu-ja'pjam-quiquia'am
いつ=2PL[S]PCLRLZ-着く-FUTそこ-場所2PL-家
「いつあなたたちはあなたたちの家に着くのですか?」

また、語幹の変化による言語もある。
動詞の人称標識の順番

動作主(A)と動作の対象(P)がどちらも動詞に人称標示される言語では、動作主の人称を先に、対象の人称を後に標示するものが多い[5]

AがPに先行する標示の例
接頭辞(スワヒリ語
ni-li-mw-ona
1SG.A-PST-3SG.P-見る
「私は彼を見た」
接尾辞(アムハラ語
naggar-a-h
教えた-3SG.A-2SG.F.P
「彼があなたに教えた」
両方(バルバレーニョ語)
kh-utiy-in
1SG[A]-見る-2SG[P]
「私があなたを見る」


日本語における人称区別の例

日本語には、明瞭な文法カテゴリーとしての人称は存在しない。人称代名詞は古代語には「あ・わ」(第一人称)、「な」(第二人称)などがあったが、普通名詞と区別する根拠に乏しい。また文法上必須の要素ではない。しかし次のように、ウチとソトの区別による使い分けがあり、誰に視点を置くかによる表現の違いが存在する。第一人称はウチに含まれ、ソトは第二・第三人称に限られるので、この使い分けは人称による使い分けに似たものとも言える。
主観的形容詞・動詞

「嬉しい」「悲しい」「欲しい」、また動詞に希望の助動詞「たい」がついた形など、人の感情、または「痛い」など肉体的感覚を表す感情・感覚形容詞は、直説法的な現在形文終止で用いる場合、主語に第一人称しか取らないのが一般的である。逆に「嬉しがる」「悲しむ・悲しがる」「欲しがる」「食べたがる」「痛がる」などの動詞は主語に第一人称を取らないのが普通である。ただし特別に感情移入する場合や、話し手自身を客観化して述べる場合、また「嬉しかった」「嬉しかろう」「嬉しいのだ」など話者の判断が介入する形では、その限りでない。
授受動詞

「与える」「受け取る」などの客観的な授受行為を表す動詞では人称は関係ないが、「やる」「くれる」「もらう」のように、ある人に視点(基準)を置いて受益を表現する動詞では、ウチとソトの区別による使い分けがある。

「やる」「あげる」「差し上げる」:与える側が主語および視点となり、受ける側はソトの人物に限られる。

「くれる」「下さる」:与える側が主語、受ける側が視点となり、与える側はソトの人物に限られる。

「もらう」「いただく」:受ける側が主語および視点となり、与える側はソトの人物に限られる。

特に「やる」と「くれる」の区別は日本語特有とされている。またこれらの動詞は補助動詞としても受益表現に使われ、その場合も人称は同様に限定される。
敬語

山田孝雄や石坂正蔵は日本語の敬語を人称に近いものとして扱っている。相対敬語の場合、ウチとソトの区別が重要である。ウチに対してソト(主語)を高めるのが尊敬語、ソトに対してウチ(主語)を低めるのが謙譲語である。上の授受動詞を例にとれば、「下さる」は尊敬語、「差し上げる」と「いただく」は謙譲語となる。
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この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2011年5月)

文学作品、とりわけ小説語り手が使用する人称によって視点の置き方が変わるため、その選択自体が一つの技法でもあり、またこれによる分類も行われる。
第一人称小説

小説の地の文(括弧内の会話文、以外の文章)において「私は」「僕は」「俺は」などの主語を用いる形式をいう。語り手が物語世界の内部で登場人物の一人として存在する。主人公であることが多いが、それに限らない。また語り手が主観的に叙述することが一般的である。例えば夏目漱石の『吾輩は猫である』の語り手は猫の「吾輩」である。従って叙述も猫の主観に立ったものとなり、「装飾されるべきはずのがつるつるしてまるでやかんだ」と人間を描写する。アルベール・カミュの『異邦人』では「今日、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かもしれないが、私にはわからない」と語る。吉本ばななの『キッチン』は「私がこの世で一番好きな場所は台所だと思う」と始まる。

このように語り手の主観が作品の語りに色濃く投影されるが、そうした手法をあえてジャーナリズムに持ち込んだのが1970年代から1980年代にかけて一世を風靡したいわゆる「ニュー・ジャーナリズム」である。

また、小説の演出において、メタ視点から「小説の中の世界における、小説自体の役割」が与えられている場合がある。例えばそれは報告書や証言手記などの形を取り、その文章の中でその手記等が書かれるに至った経緯を説明しつつ、物語を進めていく手法である。例えばH・P・ラヴクラフト恐怖小説である『ランドルフ・カーターの供述』では、尋問を受ける主人公が、自らの体験した超常現象を供述するという形を取っている。また、同じ作家の『ダゴン』では怪奇な事件の体験を手記に認める主人公が、手記を書き終えようとした時に新たな怪奇現象に出会い、手記の最後は意味深な走り書きで途切れている、という演出がなされている。

さらにハードボイルドにおいては、ダシール・ハメットの『血の収穫』以来、第一人称で語られるのが定番となっている。
第三人称小説

19世紀ヨーロッパの小説の多くは主人公第三人称で叙述されている[6]


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