人称
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動作主(A)と動作の対象(P)がどちらも動詞に人称標示される言語では、動作主の人称を先に、対象の人称を後に標示するものが多い[5]

AがPに先行する標示の例
接頭辞(スワヒリ語
ni-li-mw-ona
1SG.A-PST-3SG.P-見る
「私は彼を見た」
接尾辞(アムハラ語
naggar-a-h
教えた-3SG.A-2SG.F.P
「彼があなたに教えた」
両方(バルバレーニョ語)
kh-utiy-in
1SG[A]-見る-2SG[P]
「私があなたを見る」


日本語における人称区別の例

日本語には、明瞭な文法カテゴリーとしての人称は存在しない。人称代名詞は古代語には「あ・わ」(第一人称)、「な」(第二人称)などがあったが、普通名詞と区別する根拠に乏しい。また文法上必須の要素ではない。しかし次のように、ウチとソトの区別による使い分けがあり、誰に視点を置くかによる表現の違いが存在する。第一人称はウチに含まれ、ソトは第二・第三人称に限られるので、この使い分けは人称による使い分けに似たものとも言える。
主観的形容詞・動詞

「嬉しい」「悲しい」「欲しい」、また動詞に希望の助動詞「たい」がついた形など、人の感情、または「痛い」など肉体的感覚を表す感情・感覚形容詞は、直説法的な現在形文終止で用いる場合、主語に第一人称しか取らないのが一般的である。逆に「嬉しがる」「悲しむ・悲しがる」「欲しがる」「食べたがる」「痛がる」などの動詞は主語に第一人称を取らないのが普通である。ただし特別に感情移入する場合や、話し手自身を客観化して述べる場合、また「嬉しかった」「嬉しかろう」「嬉しいのだ」など話者の判断が介入する形では、その限りでない。
授受動詞

「与える」「受け取る」などの客観的な授受行為を表す動詞では人称は関係ないが、「やる」「くれる」「もらう」のように、ある人に視点(基準)を置いて受益を表現する動詞では、ウチとソトの区別による使い分けがある。

「やる」「あげる」「差し上げる」:与える側が主語および視点となり、受ける側はソトの人物に限られる。

「くれる」「下さる」:与える側が主語、受ける側が視点となり、与える側はソトの人物に限られる。

「もらう」「いただく」:受ける側が主語および視点となり、与える側はソトの人物に限られる。

特に「やる」と「くれる」の区別は日本語特有とされている。またこれらの動詞は補助動詞としても受益表現に使われ、その場合も人称は同様に限定される。
敬語

山田孝雄や石坂正蔵は日本語の敬語を人称に近いものとして扱っている。相対敬語の場合、ウチとソトの区別が重要である。ウチに対してソト(主語)を高めるのが尊敬語、ソトに対してウチ(主語)を低めるのが謙譲語である。上の授受動詞を例にとれば、「下さる」は尊敬語、「差し上げる」と「いただく」は謙譲語となる。
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この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2011年5月)

文学作品、とりわけ小説語り手が使用する人称によって視点の置き方が変わるため、その選択自体が一つの技法でもあり、またこれによる分類も行われる。
第一人称小説

小説の地の文(括弧内の会話文、以外の文章)において「私は」「僕は」「俺は」などの主語を用いる形式をいう。語り手が物語世界の内部で登場人物の一人として存在する。主人公であることが多いが、それに限らない。また語り手が主観的に叙述することが一般的である。例えば夏目漱石の『吾輩は猫である』の語り手は猫の「吾輩」である。従って叙述も猫の主観に立ったものとなり、「装飾されるべきはずのがつるつるしてまるでやかんだ」と人間を描写する。アルベール・カミュの『異邦人』では「今日、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かもしれないが、私にはわからない」と語る。吉本ばななの『キッチン』は「私がこの世で一番好きな場所は台所だと思う」と始まる。

このように語り手の主観が作品の語りに色濃く投影されるが、そうした手法をあえてジャーナリズムに持ち込んだのが1970年代から1980年代にかけて一世を風靡したいわゆる「ニュー・ジャーナリズム」である。

また、小説の演出において、メタ視点から「小説の中の世界における、小説自体の役割」が与えられている場合がある。例えばそれは報告書や証言手記などの形を取り、その文章の中でその手記等が書かれるに至った経緯を説明しつつ、物語を進めていく手法である。例えばH・P・ラヴクラフト恐怖小説である『ランドルフ・カーターの供述』では、尋問を受ける主人公が、自らの体験した超常現象を供述するという形を取っている。また、同じ作家の『ダゴン』では怪奇な事件の体験を手記に認める主人公が、手記を書き終えようとした時に新たな怪奇現象に出会い、手記の最後は意味深な走り書きで途切れている、という演出がなされている。

さらにハードボイルドにおいては、ダシール・ハメットの『血の収穫』以来、第一人称で語られるのが定番となっている。
第三人称小説

19世紀ヨーロッパの小説の多くは主人公第三人称で叙述されている[6]。例えば「近代小説の祖」といわれるセルバンテスの『ドン・キホーテ』、「現代小説の祖」といわれるフローベールの『ボヴァリー夫人』、他にカフカの『変身』、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』などがそうである。

第三人称小説には、いわゆる「の視点」と「一元視点」がある。「一元視点」とはある特定の登場人物の視点から描写したものである。日本の近代文学作品には第一人称とこの第三人称一元描写の作品が多い。「神の視点」とは、物語世界外の語り手の視点から「全知」の存在として叙述するものである。
第二人称小説

第一人称第三人称のほかに、第二人称小説も存在する。具体的には、地の文で「君は」「あなたは」と語りかけるものになる。例えばミシェル・ビュトール『心変わり』やジェイ・マキナニー『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』、都筑道夫『やぶにらみの時計』、倉橋由美子『暗い旅』、多和田葉子容疑者の夜行列車』などは全編が第二人称で叙述されている。
その他の人称形式小説

アゴタ・クリストフのLe grand cahier(『大きなノート』、邦訳『悪童日記』、堀茂樹訳)は、第一人称複数形式(「ぼくら」)で成功した有名な小説である。また、村上春樹の『アフターダーク』は小説内世界に肉体を持たない第一人称複数視点(私たち)を主語にしている実験的小説である。
脚注^ Siewierska 2004.
^ Siewierska 2011a.
^ a b c d Siewierska 2011b. ⇒地図
^ Osumi, Midori. Tinrin Grammar. Honolulu: University of Hawaii Press. 1995: 215, 177, 182.
^ Siewierska 2011c.
^ シュタンツェル。

参考文献


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