最も人生の意味を見出しにくい人生観というのは、“全ての出来事は偶然の積み重ねにすぎない”などと見なす人生観である、と飯田らは指摘している[1]。“全ては偶然”などと考え始めては、人というのは“どうせがんばっても、結果は偶然だ”という思いにとらわれてしまうことになり、“努力しても無駄だ”とか“努力しなくても何とかなる”などというネガティブな観念にとりつかれ、「頑張ってみよう」「正直に生きてみよう」といったような気力が出てこず、ポジティブに生きられないのだ[1]、と飯田は述べた。
せめて、「人生は一度きりであるが、その人生の中では何らかの法則が働いている」という人生観を持てば、人生で起きるさまざまな出来事について意味づけができるようになる、とも飯田は指摘している[1]。「人生は単なる偶然の積み重ねではない。自分の発言や行動が原因となり、必然的な結果がもたらされるのだ」と考えると、人というのは「望ましい結果を実現するためにがんばるぞ」という気力が湧いてくるものなのだ[1]と飯田は言う。
飯田は、人生について最も豊穣な意味づけを可能にするのが、「自分たちは、ある法則のもとで人生を何度も繰り返しながら成長している」という人生観だとしている[1]。この人生観を採用すると、「今の人生は、次の人生の下地となるものなのだから、今回の人生を日々大切に生きよう。そうすればその努力は次の人生に反映されるのだ」と希望を持って努力することができる[1]。また、この人生観は、人生の状況を冷静に客観視して、怒りなどの破壊的な感情から抜け出すことができるという効用もある[1]。例えば「今の自分の親は、以前の人生では反対に自分の子供だったのかも知れない」とか「現在の配偶者は、以前の人生では反対の立場の役をまっとうしたのかも知れないし、次の人生でも共に生きて互いを成長させあう人なのかも知れない」「いま憎く思えるあの人は、実は前の人生では無二の親友だったのかも知れない」といった見方ができるようになるといったような例を飯田史彦は挙げている[1]。このように考えることで、目先の出来事に埋没して感情的になってしまっている状態から抜け出て、高い視点から広大な視野でもって、自分の人生を眺めることができるようになる、というのである[1]。
飯田は、上記のような人生観はスピリチュアリティと呼ばれており、「スピリチュアリティというのも、あまたある人生観のひとつであり、人生を前向きに生きるための思考法である」と考えることで、学校教育の場においても安心して ひとつの道具・思考法・発想法として用いることができるようになり、生徒たちに人生を前向きに歩んでもらうためにそれを活かすことができる[1]、とした。 この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2013年11月)
脚注^ a b c d e f g h i j k l m 飯田史彦、吉田武男『スピリチュァリティ教育のすすめ: 「生きる意味」を問い「つながり感」を構築する本質的教育とは』PHP研究所、2009年。
参考文献
飯田史彦、吉田武男『スピリチュァリティ教育のすすめ: 「生きる意味」を問い「つながり感」を構築する本質的教育とは』PHP研究所、2009年。
関係する文献
福田常雄『もっと楽に生きられる―「菜根譚」で変わる人生観』読売新聞社、1998
間瀬雅夫『聖書を生きる〈2〉キリスト教の人生観・世界観』ドンボスコ社1999 ISBN 978-4886262462
石原慎太郎『法華経を生きる』幻冬舎、2000、ISBN 978-4344400016
山本七平『日本人の人生観』講談社学術文庫、1978
内藤幹治『中国的人生観・世界観』東方書店 1994
吉川英治、松本昭『われ以外みなわが師 (わが人生観)』大和出版、1983、ISBN 4804730184
勢古浩爾『結論で読む人生論―トルストイから江原啓之まで』草思社、2006、ISBN 978-4794214980
関連項目
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