人権
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「この憲法が国民に保障する自由及び権利」(日本国憲法第12条)には、広く憲法改正の承認権や最高裁判所裁判官の国民審査権まで含まれるとする学説もある[15]。国によっては、憲法が国民に保障する自由及び権利については「基本権」(: Grundrechte)と呼んで区別されることがある[14]

近年の憲法学では「人権」よりも「憲法上の権利」という表現が使われることが多い[16]
人権思想の歴史
前史

近代的な人権保障の歴史は1215年のイギリスのマグナ・カルタ(大憲章)にまで遡る[17]。マグナ・カルタはもともと封建貴族たちの要求に屈して国王ジョンがなした譲歩の約束文書にすぎず、それ自体は近代的な意味での人権宣言ではない[17]。しかし、エドワード・コーク卿がこれに近代的な解釈を施して「既得権の尊重」「代表なければ課税なし」「抵抗権」といった原理の根拠として援用したことから、マグナ・カルタは近代的人権宣言の古典としての意味を持つようになった[17]。マグナ・カルタは、1628年の権利請願、1679年の人身保護法、1689年の権利章典などとともに人権保障の象徴として広く思想的な影響を有し続けている[18]

また、16世紀の宗教改革を経て徐々に達成された信教の自由の確立は、やがて近世における人間精神の解放への一里塚となった[19]。中世ヨーロッパでは、人々は国家の公認した宗教以外のいかなる宗教の信仰も許されず、公認宗教を信仰しない者は異端者として処罰されたり、差別的な扱いを受けることが普通であった[19]。このような恣意的な制度に対して立ち上がった人々の戦いは、単に信教の自由の確立にとどまらず、近代における人間の精神の自由への自覚を生みだす役割を果たすこととなった[19]
17世紀?18世紀

市民階級の台頭を背景にグローティウスロックルソーなどにより生成発展された近代自然法論は、のちの人権宣言の形成に重要な役割を果たすこととなった[19]。例えば、ロックは生命、自由及び財産に対する権利を天賦の人権として主張するとともに、信教の自由についても国家は寛容であるべきことを主張している[20]

「天賦の権利」について実定化した最初の人権宣言は1776年バージニア権利章典である[21]。アメリカ植民地の人々は、印紙法に対する反対闘争以来、権利請願や権利章典などを援用することで自らの権利を主張しイギリス本国の圧制に抗していたが、アメリカ独立戦争に突入すると「イギリス人の権利」から進んで、自然法思想に基づく天賦の人権を主張するに至った[21]
バージニア権利章典第1条
人は生まれながらにして自由かつ独立であり、一定の生来の権利を有する。これらの権利は、人民が社会状態に入るにあたり、いかなる契約によっても、人民の子孫から奪うことのできないものである。かかる権利とは、財産を取得・所有し、幸福と安全とを追求する手段を伴って生命と自由を享受する権利である。

? バージニア権利章典[21]

アメリカで結実した自然法思想は、フランスの人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言、1789年)を生み出す原動力となった[22]。フランス人権宣言では、人は生まれながらにして自由かつ平等であることを前提に、人身の自由、言論・出版の自由、財産権、抵抗権などの権利を列挙するとともに、同時に国民主権や権力分立の原則を不可分の原理と定めている[22]。人権思想はフランス革命の進行とともにいっそう高まり、1793年憲法では抵抗権の規定が不可欠の義務にまで高められたが、財産権については公共の必要性と正当な事前補償があれば制限し得る相対的なものとなった[23](ただし、1793年憲法は施行されることはなかった)。
19世紀

18世紀の自然権思想は19世紀に入ると後退し法実証主義的ないし功利主義的な思考態度が支配的となった[7]

フランスの1814年欽定憲法では国民の権利は法の下の平等や人身の自由など数の上でも制限されたばかりでなく、質的にも天賦の権利から国王によって与えられた恩恵的な権利へと変化した[23]

ドイツの1850年のプロイセン憲法(英語版)も多数の権利規定を置いてはいたが、保障されている権利や自由は天賦のものではなく「法律によるのでなければ侵されない」というものに過ぎなくなった[24]

個人権の考え方を支配していたのは国家の主たる任務は国民の自由の確保にあり、国家は社会に干渉しないことが望ましいという「自由国家」の思想である[25]。憲法による権利保障では法の適用の平等と各種の自由権の保障が中心的な位置を占めていた[25]。自由権は1850年のプロイセン憲法に至って飽和状態となり、以後の諸憲法はほぼこれを踏襲して第一次世界大戦に至ることとなった[25]
20世紀以降
自由主義諸国の憲法と社会主義諸国の憲法

18世紀から19世紀にかけて資本主義は急速に発展したが、それとともに諸々の社会的矛盾が現れ始めた[26]。自由競争は社会の進歩をもたらすが、それが正義感覚で是認されるためには競争の出発点は平等でなければならない[27]産業革命の進展に伴って大量生産時代が普及するとともに生産手段を持たない労働者の数が増大したが、このような無産階級の人々にとって憲法の保障する財産権や自由権の多くは空しいものに過ぎなくなり、自由主義理念に基づく自由放任経済は著しい富の偏在と無産階級の困窮化をもたらした[26]。国家は社会的な権利を保障するため積極的に関与することを求められるようになった[26]

そこで20世紀の憲法にはヴァイマル憲法の流れをくむ自由主義諸国の憲法とソビエト連邦の憲法などの社会主義諸国の憲法の2つの流れを生じた[28]

1919年のヴァイマル憲法は、「社会国家」思想または「福祉国家」思想に基づき、生存権や労働者の権利といった社会的人権を保障した最初の憲法である[26][27]。ふつう自由主義諸国においては「自由国家」と「社会国家」の共存が理想とされている[29]

一方、社会主義諸国の憲法は本質的に自由主義諸国の憲法とは異なっていた[30]。自由権の権利保障の場合、単に抽象的な自由を保障するのではなく、自由権の行使に必要な物質的条件の保障もあわせて定められているという特色がある[30]。また、1936年のソビエト社会主義共和国連邦憲法は、市民の消費の対象となる物の所有及び相続は認めていたが、土地や生産手段などの私的所有は禁じていた[31]

しかし、ブルジョア民主主義を経験しなかったロシアや東欧諸国などの社会主義諸国においては、憲法そのものが十分に機能せず、そこで保障されていた権利や自由も画餅に帰していた[32]。結局、一党独裁や硬直した官僚主義などの要因によって旧ソ連や東欧の社会主義国家は行き詰まり、これらの国々の憲法も効力を失うこととなった[31]。ただ、そこでの権利保障の発想は自由主義諸国の憲法にも影響を与えたとされている[31]
人権の国際化

国連憲章体制のもとでは、人権の普遍的概念はアプリオリには存在せず、また、人権保障は原則として国内管轄事項であって国連機関による干渉が禁止される領域のものであった。このため、人権の国際的実施は、条約の形で具体化された国家の合意の枠内でまず発展した。条約制度の枠組みを離れた、とくに国連による人権の国際的保護活動が本格的に展開するのは、1980年代以降のことである。

1948年12月10日国際連合世界人権宣言を採択して宣言した。

1966年12月16日には、世界人権宣言に法的拘束力を与えるため、国際連合は国際人権規約経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約及び市民的及び政治的権利に関する国際規約市民的及び政治的権利に関する国際規約の選択議定書)を採択した。


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