人名
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豊臣政権期には多くの大名や家臣に対して豊臣氏の姓が氏長者である秀吉らによって下賜され、位記等においても称していたが、江戸幕府の成立により豊臣氏を称する家は減少し、木下氏などごく一部が称するのみとなった[19]
名字(苗字、家名)詳細は「名字」および「家名」を参照

名字」とは上古には姓名を指し、平安時代には個人の実名を指していた。鎌倉時代には個人の「名乗り」を指す言葉となり、南北朝時代には地名や家の名を指すこともあった[20]。江戸時代には「苗字」という語が用いられるようになり、いわゆる「氏」ではない「家名」を指す言葉として用いられるようになった[21]。ここでは便宜上家の名を「名字」として解説する。

平安時代には藤原一族が繁栄し、官界の多くを藤原氏の氏人が占めるようになった。この状況で、藤原一族の氏人が互いを識別するために、「一条殿」や「洞院殿」のように住居の所在地名を示す「称号」で呼ぶことが始まった[22]。この時代は親と子が別々の住居に住むことや転居も行われていたため、婚姻や転居によって称号も変化した[23]。やがて平安時代末期に嫁取婚が一般化し、住居の相続が父系によって行われるようになると、称号は親子によって継承されるものとなっていき、12世紀頃には家系の名を指すようになった[24]。公家社会ではこれを「名字」と呼んだ[24]

東国では名字の発生は10世紀から11世紀頃と推定されている[25]。地方豪族らは本領の地名によって名字を名乗るようになり、その地を「名字の地」として所領の中でも重要視していた[22]。これは荘園領主等にその地の権利を誇示する役割があったとみられる[26]足利荘を領した足利氏三浦郡三浦氏、北条郷の北条氏などがその例である[27]。また藤原木工助の子孫が「工藤氏」、藤原加賀守の子孫が「加藤氏」を称するように、先祖の本姓と官職を合わせた名字や[28]、「税所氏」や「留守氏」・「問註所氏」のように朝廷や幕府の官職や荘園内での職掌を示した名字も発生している[29]。またこれらの名字は分割相続によってさらに多く派生していった[29]。これらの分家は総領である一族の支配下に置かれ、分家の確立が過渡的な段階においては「佐々木京極」や「新田岩松」と総領家の名字を上に冠して称されることもあった[30]

また紀伊国隅田荘の隅田党のように、血縁ではない別々の家の集団が「隅田〇〇」という複合名字を名乗り、やがて「隅田」のみを家名としたように、同一の名字を名乗ることで結束を固めることもあった[31]

武士階級の間では「名字」を主君から授けることがしばしばあった。例えば織田信長明智光秀に「惟任」、丹羽長秀に「惟住」の名字を名乗らせている[32]。また、家臣に対して主君と同じ、もしくはゆかりのある「名字」を名乗らせ、擬制的な一門として扱うこともしばしば行われた。徳川氏松平姓を有力大名や血縁のある大名に名乗らせた例はよく知られている(前田氏・島津氏などの有力外様大名や一部の譜代大名、鷹司松平家など)。豊臣秀吉は特に幅広くこの政策を行い、本姓である豊臣朝臣や名字の羽柴姓を多くの大名や家臣に称させた。また今川貞世今川の名字を名乗ることを禁じられ、「堀越」の名字を称したように、名字の使用を停止する懲罰も存在した[32]

庶民は平安時代頃までは氏の名もしくは名字を名乗っていたが、中世に入ると禁令が出されたわけでもないが、記録に残らなくなった[33]豊田武は村落内の上層部が下層民に対して名字の私称を禁じたことを指摘している[34]江戸時代には、「名字」は支配階級である武士や、武士から名乗ることを許された者のみが持つ特権的な身分表徴とされ、武士階級も庶民に対して名字を称することを禁じていると認識するようになった[35]。公式な場で「名字」を名乗るのは武士や公家などに限られていた。一方で時代が下ると領主層の武家は名主や有力商人に対し「苗字」の公称を許可し、その代償として冥加金等を収めさせる例が頻発した[36]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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