人名
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

豊臣政権期には多くの大名や家臣に対して豊臣氏の姓が氏長者である秀吉らによって下賜され、位記等においても称していたが、江戸幕府の成立により豊臣氏を称する家は減少し、木下氏などごく一部が称するのみとなった[19]
名字(苗字、家名)詳細は「名字」および「家名」を参照

名字」とは上古には姓名を指し、平安時代には個人の実名を指していた。鎌倉時代には個人の「名乗り」を指す言葉となり、南北朝時代には地名や家の名を指すこともあった[20]。江戸時代には「苗字」という語が用いられるようになり、いわゆる「氏」ではない「家名」を指す言葉として用いられるようになった[21]。ここでは便宜上家の名を「名字」として解説する。

平安時代には藤原一族が繁栄し、官界の多くを藤原氏の氏人が占めるようになった。この状況で、藤原一族の氏人が互いを識別するために、「一条殿」や「洞院殿」のように住居の所在地名を示す「称号」で呼ぶことが始まった[22]。この時代は親と子が別々の住居に住むことや転居も行われていたため、婚姻や転居によって称号も変化した[23]。やがて平安時代末期に嫁取婚が一般化し、住居の相続が父系によって行われるようになると、称号は親子によって継承されるものとなっていき、12世紀頃には家系の名を指すようになった[24]。公家社会ではこれを「名字」と呼んだ[24]

東国では名字の発生は10世紀から11世紀頃と推定されている[25]。地方豪族らは本領の地名によって名字を名乗るようになり、その地を「名字の地」として所領の中でも重要視していた[22]。これは荘園領主等にその地の権利を誇示する役割があったとみられる[26]足利荘を領した足利氏三浦郡三浦氏、北条郷の北条氏などがその例である[27]。また藤原木工助の子孫が「工藤氏」、藤原加賀守の子孫が「加藤氏」を称するように、先祖の本姓と官職を合わせた名字や[28]、「税所氏」や「留守氏」・「問註所氏」のように朝廷や幕府の官職や荘園内での職掌を示した名字も発生している[29]。またこれらの名字は分割相続によってさらに多く派生していった[29]。これらの分家は総領である一族の支配下に置かれ、分家の確立が過渡的な段階においては「佐々木京極」や「新田岩松」と総領家の名字を上に冠して称されることもあった[30]

また紀伊国隅田荘の隅田党のように、血縁ではない別々の家の集団が「隅田〇〇」という複合名字を名乗り、やがて「隅田」のみを家名としたように、同一の名字を名乗ることで結束を固めることもあった[31]

武士階級の間では「名字」を主君から授けることがしばしばあった。例えば織田信長明智光秀に「惟任」、丹羽長秀に「惟住」の名字を名乗らせている[32]。また、家臣に対して主君と同じ、もしくはゆかりのある「名字」を名乗らせ、擬制的な一門として扱うこともしばしば行われた。徳川氏松平姓を有力大名や血縁のある大名に名乗らせた例はよく知られている(前田氏・島津氏などの有力外様大名や一部の譜代大名、鷹司松平家など)。豊臣秀吉は特に幅広くこの政策を行い、本姓である豊臣朝臣や名字の羽柴姓を多くの大名や家臣に称させた。また今川貞世今川の名字を名乗ることを禁じられ、「堀越」の名字を称したように、名字の使用を停止する懲罰も存在した[32]

庶民は平安時代頃までは氏の名もしくは名字を名乗っていたが、中世に入ると禁令が出されたわけでもないが、記録に残らなくなった[33]豊田武は村落内の上層部が下層民に対して名字の私称を禁じたことを指摘している[34]江戸時代には、「名字」は支配階級である武士や、武士から名乗ることを許された者のみが持つ特権的な身分表徴とされ、武士階級も庶民に対して名字を称することを禁じていると認識するようになった[35]。公式な場で「名字」を名乗るのは武士や公家などに限られていた。一方で時代が下ると領主層の武家は名主や有力商人に対し「苗字」の公称を許可し、その代償として冥加金等を収めさせる例が頻発した[36]

しかし、百姓身分や町人身分の者も、村や町の自治的領域内では個々の「家」に属しており、当然ながら「家名」を有した。こうした百姓や町人の「家名」は私称の「名字」と言える。武家政権は、村や町を支配しても、その内部の家単位の組織編制には立ち入らなかったため、個々の百姓や町人を呼ぶ場合は「名字」を冠せず、百姓何某、町人何某と呼んだ。

町人には、大黒屋光太夫など屋号を「名字」のように使う例も見られた。東日本では、百姓も屋号を名乗ることが多かった。八左衛門などといった家長が代々襲名する名乗りを屋号とすることが多く、これをしばしば私称の「名字」と組にして用いた。
通称(仮名、字、号、百官名、東百官、受領名)詳細は「通称」、「仮名 (通称)」、「」、および「号 (称号)」を参照

中国、朝鮮、日本、ベトナムなど漢字文化圏では、人物の本名、実名である「(いみな)」はその人物の霊的な人格と強く結びつき、その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられた。そのため「諱」で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の者が目上に当たる者の「諱」を呼ぶことは極めて無礼とされた(実名敬避俗)。これを貴人に対して実践したものが「避諱(ひき)」である。特に皇帝とその祖先の「諱」については、時代によって厳しさは異なるが、あらゆる臣下がその「諱」あるいはそれに似た音の言葉を書いたり話したりすることを慎重に避けた。中国などでは「避諱」によって、使用する漢字を避けて別の漢字を充てる「偏諱」が行われた。

日本においては「通称」や「仮名(けみょう)」が発達した。一方で、律令期に遣唐使の菅原清公の進言によるとする「諱」への漢風の使用が進められ、これに貴人から臣下への恩恵の付与、血統を同じくする同族の証として「通字」も進んだ。後述の「諱」を参照。

男性の場合、こうした「通称」には、太郎、二郎、三郎などの誕生順(輩行)や、武蔵守、上総介、兵衛、将監などの「官職」の名がよく用いられた。後者は自らが官職に就いているときだけではなく、父祖の官職にちなんで名付けることが行われた。北条時頼の息子時輔は、父が相模守であることにちなんで「相模三郎」と称し、さらに「式部丞」の官職について「相模式部丞」となり、さらに式部丞を辞して叙爵されて「相模式部大夫」と称した。このような慣行に加えて、時代が下ると正式な任命を受けずに官職を僭称することが武士の間に一般化し、江戸時代には、武士の官職名は実際の官職とは分離された単なる名前となった。島津斉彬は正式には「松平薩摩守」を名乗ったが、当時は「薩摩守」はあくまで「通称」と捉えられ、斉彬の「官職」といえば「左近衛権中将」を指した。この趨勢は、ついには一見すると官職の名に似ているが明らかに異なる百官名(ひゃっかんな)や東百官(あずまひゃっかん)に発展した。

女性の名前は、庶民がを名乗っていた中世前期までは、清原氏を名乗る凡下身分の女性ならば名前は「清原氏女」(きよはらのうじのにょ)などと記された。氏は中国と同様に父系の血統を表現する記号であったから、婚姻後も氏が変更されることは本来はありえなかった。官職を得て出仕すると新たな名前をつけられるが「式部」(紫式部)や「少納言」(清少納言)のように「女房名」という通称で呼ばれた[37]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:202 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef