人名
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氏・姓・本姓詳細は「」、「本姓」、「」、および「カバネ」を参照

大和朝廷(ヤマト王権)の成立前後、日本には「」と呼ばれる氏族集団が複数あり、氏族の長である氏上とその血縁者である氏人、それに属する奴婢である部曲(部民)も同じ「氏の名」を称していた[9]。これら氏には、天皇から氏の階級や職掌を示す「カバネ(姓)」が授けられた[10]

やがて氏の名は天皇より報奨として授けられるものとなり、「カバネ」も同時に授けられるようになった[10]。このように氏とカバネで秩序付けられた制度を「氏姓制度」と呼ぶ[11]

古代の律令国家の時代には、庶民も「氏の名」を称していた。養老5年(721年)に作成された戸籍では、戸に属するものは妻や妾にいたるまで同じ氏の名を称していた[12]

天武天皇の時代には20以上あったカバネが8つに再編成され、「八色の姓」と称されるようになった。この頃には「氏」と「姓(カバネ)」の区別は曖昧になり、『日本書紀』でも藤原鎌足が「藤原」の氏を受けた際には「賜姓」と表記される[13]。奈良時代頃には氏を指して「姓」と称するようになっていた[14]。また奈良時代から平安時代にかけては既存の氏族が賜姓を願い出て新たな氏の名に改めることもしばしばあった。土師氏の一部が菅原氏秋篠氏を賜姓されたように、大和時代以来の氏の名はほとんど失われていった[15]。また懲罰により氏の名を改名されることもあった[16]

本姓は基本的には父系の血統を示すため、養子に入っても変わらないのが原則であった[注釈 6]。また女性が婚姻によって別姓の家に嫁いでも同様であった。平姓畠山氏の名跡を源氏の父を持つ畠山泰国が継いだため、以降の畠山氏は源姓を称したのはその例である。しかし、後世には養子となった場合にはその家の本姓に変わることも多くなった。例えば上杉謙信の場合、家系である長尾氏平氏であるため「平景虎」を称していたが、藤姓上杉氏の名跡を継いだあとは藤原氏を称した。公家や社家においても同様で、近衛家紀伊国造家などが皇室や他氏から養子を迎えても、姓は家本来のものから変更されなかった。

1200年頃には、「源平藤橘源氏平氏藤原氏橘氏)」という代表的な4つの本姓を「四姓」と呼ぶことが行われるようになった[18]。また島津氏が藤原氏から源氏を称するようになったように、情勢によって本姓を変更することもあった。豊臣政権期には多くの大名や家臣に対して豊臣氏の姓が氏長者である秀吉らによって下賜され、位記等においても称していたが、江戸幕府の成立により豊臣氏を称する家は減少し、木下氏などごく一部が称するのみとなった[19]
名字(苗字、家名)詳細は「名字」および「家名」を参照

名字」とは上古には姓名を指し、平安時代には個人の実名を指していた。鎌倉時代には個人の「名乗り」を指す言葉となり、南北朝時代には地名や家の名を指すこともあった[20]。江戸時代には「苗字」という語が用いられるようになり、いわゆる「氏」ではない「家名」を指す言葉として用いられるようになった[21]。ここでは便宜上家の名を「名字」として解説する。

平安時代には藤原一族が繁栄し、官界の多くを藤原氏の氏人が占めるようになった。この状況で、藤原一族の氏人が互いを識別するために、「一条殿」や「洞院殿」のように住居の所在地名を示す「称号」で呼ぶことが始まった[22]。この時代は親と子が別々の住居に住むことや転居も行われていたため、婚姻や転居によって称号も変化した[23]。やがて平安時代末期に嫁取婚が一般化し、住居の相続が父系によって行われるようになると、称号は親子によって継承されるものとなっていき、12世紀頃には家系の名を指すようになった[24]。公家社会ではこれを「名字」と呼んだ[24]

東国では名字の発生は10世紀から11世紀頃と推定されている[25]。地方豪族らは本領の地名によって名字を名乗るようになり、その地を「名字の地」として所領の中でも重要視していた[22]


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