人力車
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2013年の時点でライセンスは3名が持っていたが、乗車は電話予約が必要であった。しかし、2021年末に新型コロナと車夫の高齢化(70歳)による健康状態悪化を理由として、最後の一人が廃業した。本物の人力車に代わって、香港島のスターフェリー乗り場から市内観光路線(H1)で、オープントップの二階建てバスに人力車のデザインを取り入れた「人力車觀光巴士」[10]というものがあり、人力車と同じような幌が後方に付けられている。
インドの人力車

1919年コルカタ市が正式な交通手段として認定する。

1972年以降、コルカタではいくつかの通りで人力車が禁止された。

1982年、市当局は1万2000台以上の人力車を押収し、廃棄した。

1992年の調査では、3万台以上の人力車が営業中で、そのうち6000台が違法車両や未許可車両であった。

新しい許可は1945年以降出されていない。

インドでは、しばしばリキシャはリクシャとも発音される。人力車の運転手をリクシャワーラーまたはリクシャプーラーと言う。

料金は1回の移動につき2、3ドルである。リクシャワーラーのほとんどは簡易な宿舎に住み、仕送りをするために節約している[11]

2005年8月に西ベンガル共産政府は完全に人力車を締め出す計画を発表したが、リクシャワーラーの抗議とストライキに終始した[12]

2009年現在、かなりの数の人力車がコルカタにまだ残っており、約8000台、2万人の車夫がいるとされる。リクシャワーラーの組合は、人力車の禁止に強く反対している。
歴史「孔子問答?小兒論」(1680年)の挿絵20世紀初頭のニュージャージー州。当時の富裕層は、障害とは関係なく、車椅子に乗って、それを召使いに押させる事があった。タイコーサマLes Deux Carrosses by Claude Gillot, 1707人力車 日本、1886年 シルバープリントに彩色。人力車 日本、1897年

16世紀中国で書かれた『三国志演義』では、椅子を備えた手押し車に乗った諸葛亮が描かれているという。オランダ人作家アルノルドゥス・モンタヌスによる1669年の著書でも日本を描いた絵の中に、「タイコーサマ」なる女性が諸葛亮同様の手押し車に乗っているものがある。それが日本に実在していたものかは不明だが、その頃までには人力車の様なものの存在が欧州には伝わっていた事が窺える。

1707年フランス人画家クロード・ジロー(Claude Gillot)が発表した「Les Deux Carrosses」(直訳:「二台の車」)には、後の人力車によく似た乗り物が描かれている。他、ヨーロッパやアメリカでは、日本のように複数人を載せるものではなかったが、富裕層が車椅子に乗り、召使いに押させるなどしていた。

明治初年(ほぼ1868年)のものとして、外国人が乗り車夫が日本人と見える人力車が静岡田子の浦橋上にいる写真が、ドイツボン大学に保存されていることがわかった[13]

自動車の普及と共に日本では廃れて行き、他の地域でも自転車を使ったサイクルリクシャーや、オートバイを使ったオートリクシャーに置き換えられて行った。
人力車の発明

1848年頃にアメリカ合衆国鍛冶職人アルバート・トルマン(Albert Tolman)によって宣教師の乗り物としてウースターで作られたという説、1869年頃に来日アメリカ人宣教師ジョナサン・ゴーブル(またはジョナサン・スコビー(Jonathan Scobie))が病弱の妻の為に考案して横浜で使っていたという説もあるが、記録上では日本の和泉要助、高山幸助、鈴木徳次郎の3名が発明者として明治政府から認定されている[14]。3名は東京で見た馬車から着想を得て1869年(明治2年)に人力車を完成させ、翌年1869年(明治3年)に日本橋で開業したとされる。ただし、1899年2月10日の第13回帝国議会(衆議院)では「人力車発明人ニ年金給与ノ建議案」が提出されていたが和泉らが発明者かどうかで議論となっていた。これは「何を人力車とするか」の争点もあったが当時、多くの山師達も含めた自称者が多かったためでもある。前後するが1895年3月にも、都新聞論説において、発明人に対する議論があがっている。.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典検索?: "人力車" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2020年4月)

様々な文献からの発明者と、それに対する意見を述べた文献、資料、事実を、次に記す。

(各種出願)和泉要助、他2名

(都新聞投書)広瀬某

明治事物起源では、発明者を詐称した山師であろうと考えられている。


(都新聞投書)高山幸、鈴木徳(=油屋徳右衛門)

日本工業文化史では、松兵衛の小車を改良したものであると考えられている。


(工業志料)幸助(車工)、田中古朴による共同発明

横浜沿革誌では、これを、引用している。

斉藤著人力車では、幸助=高山幸助であり高山は、田中とともに車体改良をしたと考えられている。


(愛知新聞(1872年11月31号))東京八町堀 八百屋の音吉

斉藤著人力車では、音吉=鈴木徳次郎の可能性を指摘した上で、「ニ三有志ト議シ」が和泉、高山である可能性を指摘している。


(日本工業文化史)名古屋の与助

(官設歴史編纂所(東大史料編纂所の前身)から東京府知事への質問状(1878年))小林要吉

小林が発明したとされるが相違ないかどうかの質問に対して、東京府勧業課は、1869年に和泉要助ら3名が発明。1873年12月に大蔵省に出願されたが専売特許を与えておらず、また小林が発明したという話は聞いたことが無いと回答。


第13回帝国議会速記録(1899年2月10日)西田虎次郎

京橋区内の酒井善次郎他五名からの請願書によれば、和泉らではなく西田こそが真の発明者であるとされた。

建議案提出者は、発明者が和泉。補助者が高山、鈴木。実地製作者が西田であるとした。建議案においても「……及び工人西田虎次郎ノ発明ニ係リ」と記されている。

1900年3月20日の賞勲局からの下賜では、西田は、外されている。

1877年の内国勧業博覧会に出品された人力車にも「工人・西田虎次郎」とある。


日本での普及と発明の利益博多駅前で客待ちする人力車人力車夫の扮装をした皇太子時代のエドワード8世 (イギリス王)。1922年

当時の日本で発明された人力車は、それまで使われていた駕籠より速かったのと、よりも人間の労働コストのほうがはるかに安かったため、すぐに人気の交通手段になった。明治4年旧暦12月、人力車の数は、東京府下で4万台、京都数十台、静岡・草津1台[15]

1870年東京府は発明者と見られる前記3名に人力車の製造と販売の許可を与えた。条件として人力車は華美にしないこと、事故を起こした場合には処罰する旨があった。この許可をもって「人力車総行司」と称した。人力車を新たに購入する場合にはこの3名の何れかから許可をもらうこととなったが、後述のとおり数年で有名無実となってしまう。同年、人力車の運転免許証の発行が開始されている。

人力車は安全性の高さと運賃の安さ、玄関先まで届けられるという小回りの良さが大衆に受けて急速に普及し[16]、1872年までに、東京市内に1万台あった駕籠は完全に姿を消し、逆に人力車は4万台まで増加して、日本の代表的な公共輸送機関になった。


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