1867年11月9日(慶応3年10月14日)の大政奉還により、統治権が幕府から京都の朝廷に返上されて新政府が誕生した。京都には京都府が置かれた(府藩県三治制・廃藩置県参照)。しかし、天皇が江戸で直接政治をみるため、江戸を東京として行幸・滞在(東京行幸)することになり、太政官(政府)も移動された(東京奠都参照)。その後京都への還幸は延期され、明治天皇は1877年(明治10年)に京都御所の保存を命じた。そして天皇の実際の居所は東京となった。これ以降から現在まで日本の首都は東京と認識されている。長州藩や薩摩藩が中心となって打ち立てた明治政府は天皇を中心とした国づくりを進め、やはり天皇の実際の居所こそがまつりごとの場であり首都であると考えたからである。
(なお江戸のことを東のほうにある京という意味の「東京」と改称する構想は江戸時代後期の経世家である佐藤信淵が文政6年(1823年)に著した『混同秘策』にすでに現れていて[18][19]、佐藤は、日本が世界に躍り出るためにはそもそも日本の守りを強固にする必要があるので都は江戸に移し、江戸を「東京」と呼び、大阪を「西京」と呼び、東京・西京・京都の三京にする、という構想を記した。つまり佐藤の構想は京都は従来どおり「京都」と呼び続け、大阪のことを「西京」、江戸を「東京」と呼ぶものであった。この段階で、都を、つまり首都を、東に移す計画があったわけである。佐藤の書を読み影響を受けた大久保利通が江戸を東京と改称することを明治天皇に建言したという[18]。なお「西京」という名称については明治以降に実際に起きたことは佐藤の構想とは異なり、大阪ではなくて京都を「西京(さいきょう)」と呼ぶ風潮が京都で広まり、例えば第二次大戦後に新制大学として発足した京都府立大学は最初「西京大学」と称した。)
1879年(明治12年)には郡区町村編制法により、京都に上京区と下京区の2区が置かれた。1889年(明治22年)には市制のうち三市に対して実施された市制特例により、上京区・下京区を存置したまま府管轄下に置かれる「京都市」となった。1898年(明治31年)に市制が改正[20]されたことにより、一般市と同等の市制が施行された。1956年(昭和31年)9月1日からは政令指定都市に移行した。
現在の京都府は、江戸時代までの令制国の区分では、平安京が含まれている山城国のほかに丹後国と丹波国の一部を含む。京都市は、京と別の都市だった伏見市や旧丹波国に位置する京北地域などに市域が広っている。 793年(延暦12年)平安京が新しい都に選ばれ、その翌年の794年に長岡京から遷都されたときは、東西約4.5 kmのあいだに33本の通り、南北5.2 kmのあいだに39本の通りが通されて、碁盤の目状に整然と区画された[21]。平安京の町並みは、室町時代に勃発した南北朝の戦い(1336年 - 1392年ごろ)や応仁の乱(1467年 - 1477年)で幾度も焼失して荒廃した[21]。その復興の際に市街路を狭くして、それまで市街路があったところに家屋が建てられたりしたもしたが、市街路のどこの場所を狭くするかは京都市街の場所によってまちまちであったため、道幅の広い所や狭い所があったり、まっすぐになっていない道が出来たりもした[22]。しだいに市街路に面したところに商店が軒を連ねるようになって土地が不足するようになっていったが、市街路で区画された土地の中央部分は空き地になっていた[22]。京都の土地不足は、桃山時代の豊臣秀吉によって、各区画の中央部で空き地になっている土地を有効利用して土地不足を解消するために、南北方向に道路が5本増やされた[22]。これが功を奏し、さらに京都の人々の手によって南北方向の道路が増やし続けられた[22]。このため、現在の京都市街地の通りは碁盤の目状ではなくなっており、東西方向の通りと比較して、南北方向の通りの方が数が多く、間隔は狭く並んでおり、街路に囲われた土地区画も長方形になっているところが多い[21]。
市街路の変遷