京都駅
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大和西大寺駅から近鉄奈良線に直通して近鉄奈良駅に至る特急のほか、近鉄橿原線やさらに近鉄大阪線山田線などに直通して三重県伊勢志摩方面に向かう近鉄特急も設定されている。駅番号はB01[8]

京都市交通局:京都市営地下鉄烏丸線 - 駅番号はK11[9]

JR西日本・JR東海の駅は特定都区市内制度における「京都市内」の駅であり、運賃計算の中心駅となっている。
乗車カード対応

JR西日本の駅はICOCA、近鉄と地下鉄の駅はICOCAの他PiTaPaおよびスルッとKANSAI対応各種カードの利用エリアに含まれており、それぞれ相互利用可能な各カードにも対応している。

JR東海の東海道新幹線では、EXサービス(EX予約スマートEX)で予約を行い、交通系ICカードの登録を行えば利用可能。
歴史

1874年に開業した神戸駅 - 大阪駅間の鉄道を東に延伸する形で[注釈 1]1877年2月5日に開業[11]した。開業と同時期に西南戦争が勃発し、すぐに軍事輸送用として用いられたという[12]。通過式の構造を持っていたが、数年間は終着駅として機能した。

駅が設置された八条通付近は旧来の繁華街である三条通などからは遠く離れた寂れた地域だった。立地は路線形状の都合や用地買収の観点から決定された。

1880年、鉄道は大津駅まで延伸されたが、この時のルートは東山トンネルを掘削する技術がまだなかったことから、現在のJR奈良線稲荷駅周辺まで南下した後、現在の名神高速道路が走っている敷地を通って、大津駅へと向かうものとなった(大津駅の項目も参照)。

その後、 1895年に奈良鉄道(現:奈良線[注釈 2])、1897年に京都鉄道(現:山陰本線)が開通し、市内の路面電車京都市電)も乗り入れるようになり、当駅周辺は急速に発展していった。1921年(大正10年)8月1日に東海道本線のルートが東山トンネル・新逢坂山トンネルの開通によって馬場駅(現在の膳所駅) - 当駅間で変更・短縮されることになった際に、奈良線の当駅 - 桃山駅が旧東海道本線を経由したルートに変更された。また、1928年(昭和3年)には廃止された旧奈良線のルートを利用して近鉄京都線が当駅まで開業した。

東海道新幹線の建設に際し新幹線京都駅をどこに設置するかについては、計画段階では3つの案があった。1つ目は京都駅の南約2kmの奈良線稲荷駅付近に設置する「南案」、2つ目は現駅に併設する「併設案」、3つ目は五条通の地下を通し烏丸五条(現烏丸線五条駅)付近に設置する「北案」である[13]。最終的に地元の強い要望もあり、1960年4月に京都駅へ併設することが決定した[14]。建設用地確保のため、駅の南側にあった機関車留置線などは駅の東側へ、客車留置線は新設の向日町運転区(のちの京都総合運転所)に移転した[注釈 3]。それでも若干用地が不足したため、新幹線駅は八条通の上空に最大12m程度張り出している[15]

また、新幹線の速達種別である超特急(ひかり号)は京都駅を通過する計画だったが、京都市長高山義三京都市会京都商工会議所など政財界は停車させるよう強く陳情した。さらに、1963年7月には運輸大臣綾部健太郎も超特急の京都駅停車を支持した。結局開業まで1ヶ月少々となった1964年8月18日に、ようやく超特急の京都駅停車が正式決定した[16]。詳細は「鉄道と政治#京都駅」を参照
駅舎

1877年明治10年)2月5日開業の初代駅舎は赤煉瓦のモダンな建物で、完成祝賀会には明治天皇行幸している。駅舎が七条通に面していたことから「七条ステーション」や「七条停車場」と呼ばれた[注釈 4][17]。2代目以降の京都駅より少しだけ北側にあった[1]

1914年(大正3年)、大正天皇御大典にあわせて2代目駅舎が渡辺節の設計により初代駅舎の南側に建設された[1]。敷地を確保するため、駅全体が南に移設され、貨物ヤード機関区は駅西方の梅小路に移転した[18]。初代駅舎の跡地は駅前広場の拡張に使われた。

1950年(昭和25年)11月18日午前4時頃、駅舎食堂の従業員が更衣室に設置されたアイロンの電源を切らずに帰宅したことが原因で出火し、2代目駅舎は全焼した[19]。この事件に関しては、その晩に夜警業務を行っていた従業員が業務上失火罪で有罪判決を受けている[20]

3代目駅舎は、1951年(昭和26年)に着工し、1952年(昭和27年)に完成した[21]。鉄筋コンクリート造の2階建てで、中央に8階建ての塔を備えたものである[1]。駅舎の設計については、2代目駅舎のデザインをそのままに再建する案、日本様式のデザインにする案、現代的デザインにする案などがあったが、最終的にコンクリートを多用した機能主義的デザインが採用された[22]。駅舎に近い1番のりばは電車化を見据え30cm嵩上げされた[23]

1990(平成2)年にJR京都駅改築に関するコンペが開催。翌1991(平成3)年コンペ審査で原広司案が最優秀作品に決定した[1]。1997(平成9)年の9月11日に地上16階地下3階の4代目駅舎として、京都駅ビルがグランドオープンした[2]。詳細は「#京都駅ビル」を参照
駅高架化運動

京都駅開業後、東海道本線の線路により京都駅周辺が南北に分断されることが問題視された。1930年(昭和5年)12月16日に、京都市会は「京都駅及び東海道線,山陰線の高架要望に関する意見書」を可決し、同時に「京都駅及び鉄道線高架式実行委員会」を設置して京都府・京都商工会議所と共に運動を開始した。しかしその後、戦中・戦後の混乱期に運動は断絶した。

1950年(昭和25年)11月に駅舎が焼失したことを契機に運動が再興し、「京都市内国鉄改築に関する委員会」が設立された。同委員会は1952年(昭和27年)8月5日に「国鉄高架並びに電化促進に関する委員会」と名称変更され、電化を含めた国鉄線全般の改良運動へと形を変えた[24]

1956年(昭和31年)11月9日に米原までの電化が実現し改めて高架化が争点となったが、100億円と見積もられた工費の地元負担について京都市が2割を主張したのに対し、国鉄は5割を要求したことで折り合わず実現しなかった[24]

また、東海道新幹線の駅が京都駅に併設されることが決定してからも再び高架化運動が盛り上がったが、結局実現しないまま現在に至る[25]。なお、高架化運動中に建築された3代目駅舎や東海道新幹線の京都駅は、将来の高架化に支障しないように設計されている[22][14]

この市街地の分断という問題は堀川通河原町通がそれぞれ1964年(昭和39年)、2009年(平成21年)に拡幅されたこと等により徐々に改善が図られている。

初代駅舎(1880年頃)

初代駅舎時代のホーム

2代目駅舎(1914年 - 1950年)

2代目駅舎時代のホーム。駅舎と同時に建築された軒飾り付きの上屋は現存する(1938年)

炎上する2代目駅舎(1950年)


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