京都市
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4月25日新暦換算[* 8]:1868年5月17日)- 京都裁判所を京都府に改称。

7月17日(1868年9月3日) - 西の「京都」に対して東の江戸が「東京」と改称される。

9月8日(1868年10月23日) - 皇太子祐宮の天皇即位(明治天皇の即位)による改元(明治改元)が成され、法令上は慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って改元したこととされる。


明治元年

10月13日(1868年11月26日) - 明治天皇が初めて東京に行幸し、江戸城西の丸に入った時をもって江戸城は行宮となり、その名は「東京城」へと改称される。これら一連の手続きをもって東京奠都が推し進められ、京都は事実上の“旧都”となってゆく。

11月某日(1868年12月14日?1869年1月12日間の某日[* 9]) - 第1次町組改正の施行/葛野郡聚楽廻(じゅらくまわり)・西ノ京村(にしのきょうむら)・大将軍村(たいしょうぐんむら)の各一部(洛外町続き)が上京編入される。愛宕郡粟田口村の一部と、紀伊郡東福寺門前の一部が、下京に編入される。

12月8日1869年1月20日) - 天皇が、京都の御所へひとまず還幸すべく、東京城を出立する。御所には12月22日(同年2月3日)到着。


明治2年

1月末(1869年3月12日かその数日前[* 10])- 第2次町組改正の施行/上京33番組、下京32番組(旧暦の同年、1番組が分離して33番組となる)に再編成。

3月28日(1869年5月9日) - 東京奠都の完遂(天皇の東京への完全移転)/天皇の東京への2度目の行幸あり、と思われたが、実際は、この時が京都から東京への事実上の“御所”の移転であった。天皇は、東京城に入ったこの日以降、崩御するまで、東京城を拠点として東京に居住し続けることとなり、東京城はその名も「皇城」と呼ぶこととなった(「宮城」と通称されたが、この名は第二次世界大戦後に廃止され、「皇居」が用いられるようになる)。一方、京都の御所は「天皇の正式な住居」という意味での「御所」ではなくなる。

5月21日(1869年6月30日)- 上京第二十七番組小学校(1873年(明治6年)に「柳池校(りゅうちこう)」に改称。1947年(昭和22年)に「柳池小学校」に改称)と下京第十四番組小学校(1873年(明治6年)に「修徳校(しゅうとくこう)」に改称。のちの修徳小学校)の開校/番組小学校(日本初の学区小学校)の最初の学校、すなわち、日本で最初の小学校として開校。

9月23日か(1869年10月27日)- 西園寺公望京都御所内の私邸に私塾立命館を設立/日付は西園寺が揮毫した「立命館」の扁額の銘に基づく。

12月21日1870年1月22日)- 上京第二十八番組及び二十九番組小学校(2番組合同で設立した1校で、のちの京都市立京極小学校)が、番組全65中最後の1校として開校し、京都府内の小学校数が64校となる。


明治4年

この年までに、刑部省大蔵省兵部省などの京都留守・出張所が次々に廃止され、中央行政機関が京都から消えていった。

7月14日1871年8月29日) - 明治政府廃藩置県を断行。

10月10日?11月11日(1871年11月22日?12月22日) - 西本願寺書院にて京都博覧会の初開催/これが日本初の博覧会であるが、翌年に開催したものが京都博覧会の第1回とされている。


明治5年

3月13日?5月30日1872年4月20日?7月5日) - 第1回京都博覧会の開催/事実上の第2回であるが、成功裏に終わり、以後、1896年(明治29年)まで毎年開催されることとなる。

4月14日(1872年5月20日) - 旧九条殿河原町邸内にて、女学校「新英学校女紅場」(京都府立鴨沂高等学校の前身)の開校/これが日本で最初の公立女学校であった。

5月某日 - 天皇が京都御所に戻る際、「還幸」ではなく「行幸」という語が初めて用いられる/これは天皇の本拠が今や京都でなく東京であることを如実に表す言葉の選択であった。

某月某日 - 番組を区とする市区改正が行われる。

某月某日 - 葛野郡東塩小路村の一部(現・来迎堂町)を下京に編入。


1875年(明治8年)- 新島襄が、寺町にて、私立学校同志社英学校」(同志社大学の前身)を開校。

1877年(明治10年)

2月6日 - 工部省管轄の官設鉄道東海道本線の京都線(国鉄京都線、JR京都線の前身)が開通し、終着駅として京都停車場(現・京都駅)が開業/神戸大阪を結ぶ神戸線(国鉄神戸線、JR神戸線の前身)を延伸する形で開通した。開業式だけは前日に執行された。


1879年(明治12年)

4月10日 - 郡区町村編制法京都府で施行され、明治元年に慣習的行政区画名称から慣習的地理名称に変じて以来法的に機能していなかった府内のが法的行政区画名称(行政郡)に変更されて整備される一方、上京と下京には新法上のが置かれ、上京区下京区が発足する。従来の区は「組」と改められる。

11月1日 - 葛野郡の中堂寺村(現・藪之内町)・八条村(現・薬園町・八条町・東寺町)・西九条村(現・東油小路町・西油小路町)・東塩小路村(現・東塩小路町)の各一部を下京区に編入[26]


1883年(明治16年)1月12日 - 愛宕郡の聖護院村大石原および二条畑(いずれも現・石原町)を上京区に編入[27]

1888年(明治21年)6月25日 - 愛宕郡の南禅寺村・鹿ケ谷村・浄土寺村・岡崎村・聖護院村・吉田村・粟田口村を上京区に、同郡の今熊野村・清閑寺村を下京区に編入[28](現在の左京区東山区の各一部に相当する区域)。

1889年(明治22年)

2月11日 - 「即位の礼」と「大嘗祭」を(従来と変わらず)京都で行うことを規定する旧皇室典範が交付される。

4月1日 - 上京区および下京区合体(新設合併)したうえで市制を施行し、京都市を発足。両区は市下の行政区に変わる。市制特例により市長は置かず、市長職務は府知事が行う。市制施行時の面積は29.77平方キロメートルであった。

4月1日 - 山崎恵純らが、大雲院境内にて、京都法学校立命館大学法学部の前身の一つ)を開校。
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