また田邉朔郎による琵琶湖疏水の建設と、疏水を用いた日本初の水力発電、さらにその電力を用いた日本初の電車運転(京都電気鉄道、後の京都市電)などの先進的な施策が実行された[25]。人口は明治時代中期以降しばらく、毎年1万の増加を見せるようになった。
人口の増加と市街地の拡大に対応し、明治末期から道路拡築および市電敷設、第二疏水開削、上水道整備からなる「京都市三大事業」が行われた。それに続く形で市区改正道路(都市計画道路)事業と市電の敷設が進められ、昭和初期には伏見市(現在の伏見区中心部)など周辺の市町村を編入し、ほどなくして人口は100万人を超えた。 第二次世界大戦中、六大都市(東京都区部と五大都市)の中では、空襲の大きな被害を受けなかったこともあり、日本の都市としては珍しく戦前からの建造物が比較的多く残されている。これは歴史遺産保護のために大規模空爆を受けなかったという説がある一方、広島市や小倉市(現在の北九州市小倉北区・小倉南区)・新潟市などと共に原子爆弾の投下候補都市と位置付けられており、その兵器の効力を知るためにアメリカ軍が最後まで街を温存したという説が存在する(都市選定の経過については日本への原子爆弾投下を参照)。なお、京都市が全く空襲を受けなかったわけではなく、1945年(昭和20年)1月16日から6月26日にかけて、5回の空襲を受けている(京都空襲)。 戦災による人口減は六大都市のうち最少で、1947年(昭和22年)と1950年(昭和25年)の国勢調査では東京都区部、大阪市に次いで京都市が全国3位となった。
第二次世界大戦下の京都
年表
江戸時代以前「京都」を参照
明治時代
明治改元後
慶応4年
4月25日(新暦換算[* 8]:1868年5月17日)- 京都裁判所を京都府に改称。
7月17日(1868年9月3日) - 西の「京都」に対して東の江戸が「東京」と改称される。
9月8日(1868年10月23日) - 皇太子祐宮の天皇即位(明治天皇の即位)による改元(明治改元)が成され、法令上は慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って改元したこととされる。
明治元年
10月13日(1868年11月26日) - 明治天皇が初めて東京に行幸し、江戸城西の丸に入った時をもって江戸城は行宮となり、その名は「東京城」へと改称される。これら一連の手続きをもって東京奠都が推し進められ、京都は事実上の“旧都”となってゆく。
11月某日(1868年12月14日?1869年1月12日間の某日[* 9]) - 第1次町組改正の施行/葛野郡の聚楽廻(じゅらくまわり)・西ノ京村(にしのきょうむら)・大将軍村(たいしょうぐんむら)の各一部(洛外町続き)が上京に編入される。愛宕郡粟田口村の一部と、紀伊郡東福寺門前の一部が、下京に編入される。
12月8日(1869年1月20日) - 天皇が、京都の御所へひとまず還幸すべく、東京城を出立する。御所には12月22日(同年2月3日)到着。
明治2年
1月末(1869年3月12日かその数日前[* 10])- 第2次町組改正の施行/上京33番組、下京32番組(旧暦の同年、1番組が分離して33番組となる)に再編成。
3月28日(1869年5月9日) - 東京奠都の完遂(天皇の東京への完全移転)/天皇の東京への2度目の行幸あり、と思われたが、実際は、この時が京都から東京への事実上の“御所”の移転であった。天皇は、東京城に入ったこの日以降、崩御するまで、東京城を拠点として東京に居住し続けることとなり、東京城はその名も「皇城」と呼ぶこととなった(「宮城」と通称されたが、この名は第二次世界大戦後に廃止され、「皇居」が用いられるようになる)。一方、京都の御所は「天皇の正式な住居」という意味での「御所」ではなくなる。
5月21日(1869年6月30日)- 上京第二十七番組小学校(1873年(明治6年)に「柳池校(りゅうちこう)」に改称。1947年(昭和22年)に「柳池小学校」に改称)と下京第十四番組小学校(1873年(明治6年)に「修徳校(しゅうとくこう)」に改称。のちの修徳小学校)の開校/番組小学校(日本初の学区制小学校)の最初の学校、すなわち、日本で最初の小学校として開校。
9月23日か(1869年10月27日)- 西園寺公望が京都御所内の私邸に私塾立命館を設立/日付は西園寺が揮毫した「立命館」の扁額の銘に基づく。
12月21日(1870年1月22日)- 上京第二十八番組及び二十九番組小学校(2番組合同で設立した1校で、のちの京都市立京極小学校)が、番組全65中最後の1校として開校し、京都府内の小学校数が64校となる。
明治4年
この年までに、刑部省・大蔵省・兵部省などの京都留守・出張所が次々に廃止され、中央行政機関が京都から消えていった。
7月14日(1871年8月29日) - 明治政府が廃藩置県を断行。
10月10日?11月11日(1871年11月22日?12月22日) - 西本願寺の書院にて京都博覧会の初開催/これが日本初の博覧会であるが、翌年に開催したものが京都博覧会の第1回とされている。
明治5年
3月13日?5月30日(1872年4月20日?7月5日) - 第1回京都博覧会の開催/事実上の第2回であるが、成功裏に終わり、以後、1896年(明治29年)まで毎年開催されることとなる。
4月14日(1872年5月20日) - 旧九条殿河原町邸内にて、女学校「新英学校女紅場」(京都府立鴨沂高等学校の前身)の開校/これが日本で最初の公立女学校であった。
5月某日 - 天皇が京都御所に戻る際、「還幸」ではなく「行幸」という語が初めて用いられる/これは天皇の本拠が今や京都でなく東京であることを如実に表す言葉の選択であった。
某月某日 - 番組を区とする市区改正が行われる。
某月某日 - 葛野郡東塩小路村の一部(現・来迎堂町)を下京に編入。
1875年(明治8年)- 新島襄が、寺町にて、私立学校「同志社英学校」(同志社大学の前身)を開校。