京都市
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コロナ禍の2020年と2021年は2年連続で1年間に最も人口が減少した市となった[21]


京都市と全国の年齢別人口分布(2005年)京都市の年齢・男女別人口分布(2005年)
■紫色 ― 京都市
■緑色 ― 日本全国■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性
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現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。

京都市(に相当する地域)の人口の推移
総務省統計局 国勢調査より

健康


平均年齢:47.3歳(2020年(令和2年))[22]

隣接自治体
京都府
宇治市 長岡京市 南丹市 亀岡市 向日市 八幡市 乙訓郡大山崎町 久世郡久御山町
滋賀県
大津市 高島市
大阪府
高槻市 三島郡島本町
歴史エンゲルベルト・ケンペル方広寺大仏(京の大仏)のスケッチ[23]。かつて京都に存在し大仏として日本一の高さを誇っていたが、寛政10年(1798年)に落雷による火災で焼失した。八坂の塔※ここでは明治維新以後の京都市について述べる。以前の京都市の歴史については、京都を参照。
近代都市への変革

幕末に再び政治の中心地となった京都は人口が膨れ上がり、かつてない活況を見せたものの、禁門の変などで街の多くが焼けたのに加え、明治維新後に皇室公家の大半が東京へ移り住んだため、一転急速な衰退を見せた。江戸時代は「三都」と呼ばれ、享保14年(1729年)には374,000人、明和3年(1766年)に318,000人の人口を誇る江戸大坂に次ぐ都会であったが、明治維新後の1873年(明治6年)には238,000人までその人口が落ち込んだ程である。

そのため、京都府知事市制施行当初は京都市長も兼任)などから産業の振興を呼びかける声が上がり、京都府に復興の顧問として迎え入れられた山本覚馬は京都を何とかして復興させようとある計画を立ち上げる。それは1867年パリで行われた当時世界最大のイベント「パリ万国博覧会」をヒントにした博覧会を京都で開催するというものであった。そのため、政府に嘆願し、外国人の居留地からの移動制限を博覧会の期間のみ解除することを許され、京都に外国人を迎え入れられるようにした。そして西本願寺知恩院建仁寺を会場に「第一回京都博覧会」を開催し、京都の復興の足がかりを作った。前年の明治4年10月10日?11月11日1871年11月22日?12月22日)には日本初の博覧会が民間により西本願寺で開かれている[24]

また田邉朔郎による琵琶湖疏水の建設と、疏水を用いた日本初の水力発電、さらにその電力を用いた日本初の電車運転(京都電気鉄道、後の京都市電)などの先進的な施策が実行された[25]。人口は明治時代中期以降しばらく、毎年1万の増加を見せるようになった。

人口の増加と市街地の拡大に対応し、明治末期から道路拡築および市電敷設、第二疏水開削、上水道整備からなる「京都市三大事業」が行われた。それに続く形で市区改正道路(都市計画道路)事業と市電の敷設が進められ、昭和初期には伏見市(現在の伏見区中心部)など周辺の市町村を編入し、ほどなくして人口は100万人を超えた。
第二次世界大戦下の京都

第二次世界大戦中、六大都市(東京都区部五大都市)の中では、空襲の大きな被害を受けなかったこともあり、日本の都市としては珍しく戦前からの建造物が比較的多く残されている。これは歴史遺産保護のために大規模空爆を受けなかったという説がある一方、広島市小倉市(現在の北九州市小倉北区小倉南区)・新潟市などと共に原子爆弾の投下候補都市と位置付けられており、その兵器の効力を知るためにアメリカ軍が最後まで街を温存したという説が存在する(都市選定の経過については日本への原子爆弾投下を参照)。なお、京都市が全く空襲を受けなかったわけではなく、1945年昭和20年)1月16日から6月26日にかけて、5回の空襲を受けている(京都空襲)。

戦災による人口減は六大都市のうち最少で、1947年(昭和22年)と1950年(昭和25年)の国勢調査では東京都区部、大阪市に次いで京都市が全国3位となった。
年表
江戸時代以前「京都」を参照
明治時代
明治改元後


慶応4年

4月25日新暦換算[* 8]:1868年5月17日)- 京都裁判所を京都府に改称。

7月17日(1868年9月3日) - 西の「京都」に対して東の江戸が「東京」と改称される。

9月8日(1868年10月23日) - 皇太子祐宮の天皇即位(明治天皇の即位)による改元(明治改元)が成され、法令上は慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って改元したこととされる。


明治元年


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