京浜東北線
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1914年大正3年)

12月20日東京駅から高島町駅(後に廃止)まで東海道本線の電車線が京浜線として運行を開始。

当時は鉄道院において最も長い電車による運転区間であったこともあり、1両の半分ではあるが二等客室(現在のグリーン席に相当)を有した車両(二・三等合造車)を連結していた。また、京浜電車とも称されていた。

東京駅の開設とともに京浜線電車の運行が開始されたが、準備不足により開業日早々に来賓を乗せた下り電車が立ち往生するトラブルを引き起こした。仙石貢鉄道院総裁は翌12月21日の新聞各紙に謝罪広告を掲載したほか、その後もトラブルが起こっていたため電車の運行を一旦中断し、半年余り入念な試運転を行って運行を再開させた。


12月26日:運行休止。京浜線専用駅の大井町駅・高島町駅営業休止。


1915年(大正4年)

5月10日:運行再開。大井町駅・高島町駅も営業再開。

8月15日横浜駅の移転(2代目横浜駅、現在の国道1号高島町交差点付近)に伴い、高島町駅を横浜駅に統合し廃止。

12月30日:運行区間を桜木町駅(初代横浜駅)まで延伸。


1916年(大正5年)11月上旬:急行電車の運転を開始[5]

1918年(大正7年)4月1日:急行運転を廃止[5]

1925年(大正14年)11月1日:東北本線東京駅 - 秋葉原駅間の電車線が完成。京浜線電車の運行区間を田端駅まで延伸[6]

1926年(大正15年)9月:京浜線の電車1両に自動ドアを試験的に組み込み運用が開始[7]

1928年昭和3年)

2月1日:東北本線田端駅 - 赤羽駅間の電車線(複線)が完成。京浜線電車の運行区間を赤羽駅まで延伸。

田端駅 - 赤羽駅間は東北本線列車線(複線)に添う形で建設された電車線(複線)を増設することによって運転区間が延伸された。王子駅・赤羽駅周辺の築堤はこの時に建設された(赤羽駅の築堤はその後の連続立体交差化工事により取り壊され、現存しない)。

現在のような京浜東北線の運行形態が始まる以前より、東北本線列車線(田端駅、王子駅経由)の上野駅 - 大宮駅間には、三等車のみで区間運行する列車が複数設定されていた。


10月15日:横浜駅の移転(3代目横浜駅、現在地)に伴い、新駅の前に仮設ホームを設置、旧横浜駅の電車乗降場を横浜駅高島口乗降場として存置[8][9]


1930年(昭和5年)1月26日:旧神奈川駅から旧横浜駅までの線路を現在の経路に付け替え[8]。横浜駅高島口乗降場廃止[10]

1932年(昭和7年)9月1日:東北本線列車線の赤羽駅 - 大宮駅間を直流電化し、これに乗り入れる形で大宮駅まで運行区間を延伸。

大宮駅まで延伸した当初は東北・京浜線とアナウンスされていたようであるが、1956年11月19日から京浜東北線に改められた。ただし、1932年9月時点で「京浜東北線」という名称は登場しているようである。東京以南では1970年前後まで「京浜線」とアナウンスする駅が多かった(現在でも発車標などではスペースの都合上「京浜線」や「京浜」と表示される場合があり、城北地域(東京都北区など)や埼玉県南部では2023年時点でも「京浜」と呼ばれることが多い)。


1938年(昭和13年)9月3日:戦時輸送への移行に伴い二等車を廃止。

1945年(昭和20年)

4月15日蒲田電車区が空襲により被災し、焼失。一時的に蒸気列車による運転を実施。

5月29日横浜大空襲により東神奈川電車区が被災、焼失。


1949年(昭和24年)9月15日婦人子供専用車を設定(進駐軍用車両の後部半室を転用)。

1951年(昭和26年)

4月24日:当時終点であった桜木町駅構内にて工事ミスにより差し掛かったモハ63形2両が焼失し、106名が死亡する桜木町事故が発生。

12月:進駐軍用車両の設定を廃止し、二等室に転用。


1952年(昭和27年)3月15日:二等車を正式に再設定。

1956年(昭和31年)11月19日:田端駅 - 田町駅間の山手線・京浜東北線との分離運転開始。

全区間に方向別複々線を採用。このうち、品川駅 - 東京駅間は戦前の京浜線急行電車計画により既にホームや高架橋の一部などが完成しており(対米戦の開始により未成に終わった)、分離以前は東北線高崎線常磐線の一部列車が朝夕ラッシュ時上野駅から新橋駅まで、常磐線の国電(現行の常磐線快速電車、当時は各駅停車で運転)が上野駅から有楽町駅まで、それぞれこの複々線のうち工事完了区間を利用して乗り入れていた。


1957年(昭和32年)6月30日:二等車を廃止。

1964年(昭和39年)5月19日根岸線桜木町駅 - 磯子駅間が開業し[11]、同線と直通運転を開始。横浜駅 - 桜木町駅間が東海道本線から根岸線に編入される。

1965年(昭和40年)10月:103系を投入[12]

1968年(昭和43年)10月1日:東北本線大宮駅 - 赤羽駅間3複線化完成により、同区間が東北本線列車と分離。同時に埼玉県内を完全立体化して、大宮駅 - 川口駅間の全踏切を撤去[注 5]。いわゆる「通勤五方面作戦」の一環で、貨物列車・長距離列車・近距離電車との分離を実施。

1970年(昭和45年)

3月17日:根岸線磯子駅 - 洋光台駅間 (4.6km) 延伸開業[11]。新杉田駅・洋光台駅が開業。

11月:101系が中央線快速などから転入開始。


1971年(昭和46年)4月19日:72系などの旧形電車の運行終了。

1973年(昭和48年)4月9日:根岸線洋光台駅 - 大船駅間 (8.0km) が延伸開業し根岸線全通[13]。港南台駅・本郷台駅が開業。

1974年(昭和49年)5月:山手線に引き続きATC対応103系冷房車を投入。101系は1978年3月までに撤退し南武線片町線などに転用、103系初期型の制御車(クハ・クモハ)は1980年9月までに横浜線青梅線中央西線名古屋地区阪和線等の新性能化などに転用された。

1981年(昭和56年)12月6日:大宮駅 - 蒲田駅間で自動列車制御装置 (ATC) 使用開始[注 6]

1984年(昭和59年)1月29日:蒲田駅 - 大船駅間でATC使用開始。

1988年(昭和63年)3月13日:ダイヤ改正を実施し、都心部(田端駅 - 田町駅間)で日中の快速運転を開始[新聞 1]。快速運転開始当時の田端駅 - 田町駅間の途中停車駅は、上野、秋葉原、東京であった。

1989年平成元年)10月27日:205系を導入。

1992年(平成4年)5月7日:901系(後に209系へ称号変更)の運用開始。

1993年(平成5年)2月15日:209系0番台車(量産車)の運用開始。

1994年(平成6年)12月3日:土曜ダイヤを廃止し、土曜・休日ダイヤへ移行[14]

1995年(平成7年)

5月24日:209系に6扉車を連結開始[新聞 2]
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